長谷雄草子

 中納言紀長世雄公は、両親が長谷観音に願掛けして授かったお子であったので、長谷雄と名付けられたお方である。観音のご冥護を受け、学問は多方面に秀いで、技芸もあらゆる科目に通じて、世間に聞こえ、内裏でも重んじられていた方であった。

 ある日の夕暮れのこと、中納言が、内裏へ参上しようと支度をしていると、一人の男が邸を訪ねてきた。見知らぬ男ではあったが、柔和な笑顔の奥にひかる眼差しは鋭く、凡人とも思えぬ風体で、一見して、中納言は興味を覚えた。
 男がいうには、
「所在ないままに、双六を打ちたいと存じましたが、上手の名の高いあなたさま以外に相手はいまい、と思いついて、参上しました」
というので、中納言はいぶかしく思いつつも、一勝負しようという気がむらむらとわき上がってきた。
「これはおもしろいことをおっしゃる。出かけようと思っていたところだが、よろしいでしょう。お相手しましょう」
というと、
「このお邸では具合悪いでしょう。わたしがよい場所を存知ております。一緒にいらっしやいませ」
というので、
「それもそうだ」
と、牛車の類にも乗らず供人もつれず、ただ一人男について行った。
 ちょうど、朱雀門のほとりに至ったところで、
「この門の上へお昇りください」
と男はいう。
 見るからに昇れそうもなかったが、
「なあに、目を閉じてでも昇れます。試しに、目を閉じてごらんなさいませ」
というので、言われるままに、目を閉じて二、三歩、歩むと、二人はすでに門の上にいた。
 驚いていると、男は、すぐに双六の盤や道具を取り出して、
「なにを賭けましょうか。わたしが負けましたら、あなたのお心に、顔も姿も気性も、不満足な点一つないような美人をさしあげましょう。あなたがお負けになったら、どうしますか」
というので、
「わたしは、身に持っているかぎりの財宝を、すべてさしあげよう」
というと、
「それはよい」
と、話はまとまってさっそく打ちはじめた。
 しかし、いくらやっても中納言が一方的に勝つばかりであった。男は、負けが込んでくるにつれ、興奮してきた様子で、賽ころをかきなでて熱中しているうちに、普通の人間の姿から恐ろしげな鬼の形相となった。
 中納言は「恐ろしい」とは思ったが、「ままよ、勝ちさえすれば、こやつは鼠のようにおとなしくなるだろう」とがまんして打っていると、とうとう勝ち切ってしまった。
 勝負が終わると、鬼は、平静さを取り戻したのか、また先刻の男の姿に戻って、中納言に鬼の姿を晒したことには、気付かぬ様子で、
「いくらなんでも勝てるのではと思っていましたのに、こっぴどく負けたものですね。さすがに、うわさどおりお強い。お約束通り、明後日、賭物をお届けしましょう」
といって、もとのように朱雀門から降ろしてくれた。

 約束の日、中納言は、「浅ましいことだ」と思いつつも、鬼の約束を内心あてにして、しかるべき部屋を準備した。夜がふけてくると、せんだっての男が、輝くような美女をつれて来た。
 中納言は、鬼の娘かと躊躇したが、その美しさに目もくらむような気分で、
「ほんとうに、この美女をわたしに預けるというのか」
と聞くと、
「いうまでもありません。娘を差し上げましょう。お約束でございますから、お返しくださらねばならぬ道理はありません。ただし、まぐわいなさるは、今宵から百日過ぎてから。もし、百日以内に女体を犯しなさいますと、きっと不本意なことになります」
というので、
「いかにも、おっしゃるとおりにしよう」
と約束して、女を手もとに置き男を返した。
 夜が明けてからこの美女を見ると目もくらみ、心もまどうばかりで、「この世にこんな美しい女がいたのか」と、不思議に思うばかりであった。
 中納言は、鬼のたくらみを探ろうと、女に尋ねた。
「そなたの名は何と申す」
「ゆい(結)と申します」
「そなたは、生娘か、白拍子か。はたまた、鬼の娘か。そなたを連れてきた男が、鬼であることは承知しておるぞ」
「わたしは、近江の国堅田の庄屋の娘にございます。先日、私の家に白羽の矢が立ち、人身御供に出されたのでございます。あまりの怖さに気を失い、気がついたら、あの男に介抱され、ここに連れてこられたのでございます」
「そうであったか。それは、さぞ、恐ろしい思いをしたことであろう。もう、心配するにはおよばない。私は、中納言紀長世雄だ。ご両親も、さぞ心配されているであろう。早速そなたを家におくりとどけよう」
というと、女は顔を曇らせて、
「ありがとうございます。でも、わたくしが家に戻ったことがしれますと、両親は喜びましょうが、近在のものは、鬼の仕返しを恐れて恨みましょう。それでは、家がたちゆかなくなります故、どうか、ここにお留め置きください」
という。中納言は、それもそうだと思いなおして、
「それでは、ここに住まうがよい。ご両親には、時機を見てお知らせすることにしよう」
と女を預かることにした。
 日が過ぎるにつれ、気性も親しみやすくなり、添い臥しなどをして、一刻も離れてはいられないほど仲となった。

 こうして八十日あまりたったある日、「もう日数も多く過ぎた。かならず百日と限ったことでもあるまい」と、がまんし切れなくて、嫌がる女を押さえつけて、女体をわが物とした。
 夜半、目覚めた中納言は、まぐわいの余韻に浸りながら横に臥している女の裸体をまさぐるうち、女にあってはならないものがあるのを見つけ、驚いて飛び起きた。
 そこには、これまでは、なかったはずのものが、雄々しくそそり立っていた。
 そして、さらに自分の股間の異常に気がついた。
「わたしのが、ない!! ゆい!ゆい!これはどうしたことだ。わしをたばかったか。やはり、おまえは、鬼の娘か」
と女を責めるが、女は、
「お約束さえ、お守りいただけたらこんなことには……」と泣くばかりであった。

 夜も開けようとする頃、寝所の戸を叩くものがいた。中納言は、自分の情けない姿に、躊躇していると、せんだっての男が現われ、
「あなたは誠実味のないお方だ。奥ゆかしい方とお思い申しあげていたのに。
 この女は、九十九人の死人のよい所ばかりを取り集めて人形(ひとがた)に作ったものだが、完ぺきな女の魂がなければ、ただの人形。百日過ぎたらあなたの心の中にある理想の女の魂が定着して、ほんとうの完ぺきな女になるはずだったのに。
 この女は、あなたの心にある理想の女を読み取っていたのだから、この女に夢中になるのは当たり前のことだが、あなたなら、きっと成就してくれると信じていたのに、見損なったものだ」
と歯ぎしりして悔しがり、見る見る形相を変えて、じりじりと近づいてくるので、中納言は心をこめて、
「南無、観世音菩薩」
と祈念すると、空中に声あって、
「しょうのない奴だ。とっとと消え失せよ」
と大いに怒った声で聞こえてきたとたん、男はかき消すようにいなくなった。

 残念にも約束を忘れて百日前に女体を犯したために、この女は、まぐわった中納言のりっぱなところを取り込んでしまったのだ。
 中納言は、幾度もくりかえし後悔したのだが、まったく甲斐のないことであった。

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