1 女房装束

1-1.十二単

 「十二単」、正式には「五衣・唐衣・裳」と呼びます。
 左の写真は、陽子の十二単の晴れ姿です。
 古くは「女房装束」「女装束」「裳唐衣」などと呼ばれ「十二単」という言葉はありませんでした。平家物語で、壇ノ浦に身を投げる建礼門院平徳子の装いを「弥生の末(3月24日)のことなので藤がさねの十二単〜」と記してあるのが最初だということです。
 十二単の本来の意味からいうと単(ひとえ)の上に褂(うちき)を十二枚はおってはじめて十二単なのですが、この語感が良かったのか以降、盛んに用いられるようになったということです。

十二単の構成は、まず足には「襪(しとうず)」を着けます。次に紅精好の「長袴(ながばかま)」、「単(ひとえ)」をつけて、その上に「衣(きぬ)」(袿ともいい、五領重ねてるようになってからは「五衣(いつつぎぬ)」と呼びます)「打衣(うちぎぬ)」「表着(うわぎ)」を着重ねて、「唐衣(からぎぬ)」を打ちかけてから「裳(も)」の腰を正面に結びます。「帖紙(たとう)」を懐中し、右手に「檜扇(ひおうぎ)」を持ち左手で支えます。鎌倉時代の頃からは「単」の下に白の「小袖(こそで)」を着けます。

「大垂髪(おおすべらかし)」
 女房装束着用の際の頭髪は、近世までは解き下げにした「垂髪(すいはつ)」が普通で、儀式または陪膳(はいぜん)の時は、「髪上(かみあげ)」と称して、髪を緩く垂れて頂きに束ね、釵子(さいし)・額櫛(ひたいぐし)を挿しました。さらに厳儀にはこれに鍍金の平額(ひらびたい)を付けて、釵子を挿して留めます。これを宝髻(ほうけい)と呼んでいます。
 しかし、江戸時代の末頃に、「垂髪(すべらかし)」の鬢のところを左右に大きく張らせた髪上下(かみあげした)となりました。普通はこの髪型を「大垂髪(おおすべらかし)」または、簡単に「お大(だい)」と呼び、十二単の正式な髪型となっています。
 鬢の張りを支えて左右に大きく膨らみを持たせるために、「つとうら」という仙花紙を台にして後髪で包みこれに髪を固定させます。次に頭の真上で額際のところに「丸髢(まるかもじ)」を付けます。「丸髢」の末と「つとうら」に固定した髪の末を一つにして、これに「長髢(ながかもじ)」を継ぎ、この継いだところに「絵元結(えもつとい)」を付けその下に紅の「水引」を片輪結びします。さらにこの水引の下に白い和紙を中四つ折りにした「こびんさき」を結びます。
 最後に、「丸髢」の前に「釵子(さいし)」を三本の「簪(かんざし)」と一本の紫の縒糸(よりいと)で固定し、その下の額際に「額櫛(ひたいぐし)」を挿して出来上がりです。

「袴(はかま)」
 平安時代の貴族の装束では男女とも必ず袴をはいていました。
 女性の袴には、足の出る短い「切袴(きりばかま)」と足のでない「長袴(ながばかま)」があり、十二単には「長袴」を着けることになっています。
 男子の大口の拵えと同形にしてなお長く仕立てたものです。紐は一条で、前後の腰を廻らし、右脇に取り合わせて結び下げるのを特色としています。また、襞は下まで通さずに僅かに設け、腰の上から刺縫(さしぬい)を施しています。
 色目は紅が本義で、紅袴とも称されていますが、若年は濃色(こきいろ)とし、移徙(わたまし)の際には白を用い、凶事には萱草色(かぞういろ)を用いたこともあったそうです。
 皇后・中宮・女御・内親王は綾、臣下は平絹による表裏同質のいわゆる「ぶつ返し」を常としました。袴は左右に張っているほど良いとされますので、古くは平絹・綾などの柔らかい生地を使う場合は、糊を引いて固く張らせた「張袴(はりばかま)」や、糊を引き砧で打って光沢を持たせた「打袴(うちばかま)」などでしたが、時代が下がると、「板引(いたびき)」といって表の地質を張らせて形状を整えるようになり、「張袴(はりばかま)」とも呼ばれました。しかし、近世でもなおこれを打袴と称しています。江戸時代の末には括袴(くくりばかま)とも俗称されました。
 また略儀には生絹(すずし)が用いられ、もっぱら夏の料とされました。
 この上に単を着けます。
 「単(ひとえ)」
 単は、名のとおり夏冬にかかわらず一重で、古くは肌着として用いていて、色は紅が普通です。しかし、表着との配合によっては、青・黄・白なども用いられます。
 近代は、紅・濃(こき)または萌葱に幸菱文(さいわいびしのもん)のある堅地綾(かたじあや)を用います。そして通常、女御・内親王は白精好(せいごう)を夏の料とし、冬は紅幸菱を用い、典侍以下は萌葱幸菱としています。 
 「五衣(いつつぎぬ)」
 単の上に「五衣」をまといます。衣は「褂(うちき)」ともいい、はおるものという意味です。初期にはたくさん重ねていた衣を基本的に五領としたので「五衣」と呼ばれています。
 単とこの五衣との色の組み合わせを「襲色目(かさねいろめ)」といい、四季の自然を衣の色に託して表現しています。

  春・冬 皆紅(みなくれない)
      紅匂(くれないにおい)
      紅薄様(くれないのうすよう)
      紫匂
      紫薄様  紅梅重(こうばいがさね)
      桜重   山吹  躑躅(つつじ)
      自薄様  松重
      葡萄染(えびぞめ)
  夏(単)藤重  卯花  菖蒲
      蘇芳
  秋   菊重  紅葉重
 皇后は、表に紅雲立涌(くれないのくもたてわく)、裏に二藍(ふたあい)を用いています。

「打衣(うちぎぬ)」
 五衣のうえに「打衣」を着けます。
 近代では、単の上に打衣を着ることは多いようですが、この着用順序には諸説があり、大正の大礼以後は、打衣を五衣の上に着けることとなっています。
 この打衣は、衣の下に着る内衣の意味の袿(うちぎ)ではなく、砧打(きぬたうち)として艶を出した衣という意です。その形状は単と同様ですが、打衣は裏付で、表の地質には女御・内親王などは紅繁菱綾、典侍以下は紅平絹を板引として用い、裏には紅平絹を用いるのを常とします。なお近代の皇后の料は表を深紫竪繁菱綾(ふかむらさきのたてしげびしあや)とし、裏は深紫平絹としています。

「表着(うわぎ)」
 表着は、名の示すとおり、衣の「最上に着る」ことからこう呼ばれています。仕立ても衣と異なる点はありませんが、重ねを見せるために幾分小形になっています。
 元来、唐衣より内に着けた衣なので、内衣(うちぎ)ともいい、普通は袿と書きます。 地質は、階級によって、表には「浮織物(うきおりもの)」「二倍織物(ふたえおりもの)」や「堅織物」など豪華な織物が使われ、裏は平絹が用いられます。
 表の文様は、椿・藤・松・菊など各自の好みにより、色についても定まった規定はありません。

「唐衣(からぎぬ)」
唐衣は、女性の最高位の礼服である「背子(からぎぬ・はいし)」という無袖の短衣の変化したものと言われています。上半身をはおるにとどまる長さで、後みごろは前よりも短く、袖丈は前みごろと同様ですが、裄は下の重ねを現わすために狭くなっています。
 また襟は普通の仕立と異なり、二条をそれぞれ左右のより縫代を表に出して綴じ付け、襟の後ろの三つ襟のところで縫い合わせ、余りを左右に開いて髪置としています。
地質は、表着と同様、階級によって相違しますが、色目は唐衣には禁色があり、赤色(深い紅)と青色(緑黄色)の唐衣が禁色とされ着ることが出来ない他は、各自の好みに任せられています。
 近代は、皇后は白、皇族は紅・紫、その他は萌葱・蘇芳の二陪織物で、地文は亀甲が多く、上文には菊・雲鶴・蝶・藤・松などがあります。

「裳(も)」
 「裳」は、唐衣の下に表着の上から着けて長く後ろに引きますが、 これは八幅の裂に襞を入れて裾開きとしたものです。もとは腰に二重に回して着けていましたが、後に一重になり、さらに変化して後ろの部分だけになったものです。
唐衣の背の裾に当てて着ける「大腰(おおごし)」、後ろに引く二筋の「引腰(ひきごし)」(平安時代のころは裙帯(くんたい)と呼んでいました)、裳を腰に結びとめる「子紐」と「小腰(こごし)」、それに八幅からなる「裂(きれ)」から出来ています。
 地質・色目・文様は、多種多様ですが、近世は二陪織物・堅地綾(この緯糸はやや半練として柔らかにする。以上、冬の料)、顕文紗(夏の料)などに、三重襷(みえだすき)を地文とし、上に皇族は桐・竹・鳳凰文様、臣下は尾長鳥、雲形、波松島などを画いたものが多いようです。
 大腰・引腰は、白のかに露文様の浮織物とし、五色の糸の上刺をし、さらに引腰には、五色の糸の水流に、松の繍を施します。小腰には、唐衣の表と同地を使用し、これにも上刺を入れ、余りをさばいて飾りとするのを例としています。
 平安時代の女性の成人式が、「裳着(もぎ)」「着裳(ちゃくも)」などと呼ばれているのは、まさにこの「裳」を着ける儀式であることから来ています。十二単の裳は成人であることを表しているのです。

「大翳(おおかざし)・檜扇(ひおうぎ)」
 大翳は大挿頭とも書き、泥絵・糸花飾りの檜扇をいい、女房檜扇とも通称しています。また、衵扇(あこめおうぎ)ともいいました。
 近代に至って特に大形となり、歩行に際して面(おもて)に翳すのに用いたことからこの名が付いています。
 三十九橋(ほね)の檜扇の表裏を、極彩色として、雲形に花・鳥・蝶などの吉祥文様を画き(表に鳳凰に桐などの吉祥文様、裏に蝶烏文様などを画くのを普通とする)、要(かなめ)に鍍金の蝶烏金具を据え、親橋の上部、綴じ糸の上に糸花(松・梅、または松・梅・橘)を付け、青・黄・白・紫・紅・薄紅の六色の飾糸を蜷結(になむすび)とし、余りを長く垂らしました。

「帖紙(たとう)」
紅梅色に染めた鳥の子紙二枚を重ねて折りたたんだもので、金泥を以て霞・梅などを画き、折り目に中陪(なかべ)を出して、重ねの色目を現わした懐紙です。この中に48枚の小菊紙を入れます。

「襪(しとうず)」
指股のない足袋のようなものです。コハゼのかわりに絹製の二本の紐で足首に括るようになっています。

1-2.小 袿(こうちき)

 小袿は、女房装束の略装で、高貴の女子の間に内々に用いられました。女房装束のうち、唐衣・裳を除いた、いわゆる重袿に袿の姿で、上衣の袿が、下の重袿をおめらかすために、特に小形に仕立てられたので、小袿と呼ばれました。
 したがって、実体は表着とあまり変わらず、女房装束に付属するのが表着で、独立して用いる際は小袿ということです。表着の時は、唐衣の下着として用いられたのに対し、小袿は褻(け)の際ではありますが、唐衣と同様、最上の料として用いられたことで、しだいに、仕立・地質・文様・色目などにも、最上着としての体裁を整えて、表着とは別箇の存在となっていきました。特に袖口・襟・衽(おくみ)・裾廻しに裏地を返しておめらかす他、「おめり」と表地との間に、さらに今一色の裂地を挟んで中陪(なかべ)とし、重ねの飾りを副えて、小袿の特色としています。ただし、老年者は、中陪を除いて、「おめり」のままとして用いました。
 髪はもとより解き下げとして後ろに長く垂らします。
 裂地は、二陪織物または浮織物とし、中陪および裏は平絹とします。色目および文様は自由で、好みに任せて趣向を凝らしました。通常、表および中陪・「おめり」によって重ねの色目を現わし、文様も重ねの色目にちなませました。
 このように小袿は、略儀の際の最上着です。 

1-3.袿  袴(けいこ)

 袿袴は、鎌倉時代以後に公家の女子が常用とした袿と袴からなる服の総称です。
 女房装束は、平安時代末期を最盛期として、しだいに大儀だけの使用となり、日常にはその上衣を省略して用いるようになっていきました。すでに平安時代末期には、内々には唐衣を省略するようになり、また小袿姿もあらわれましたが、鎌倉時代のころからは、もっぱら衣に袴だけのいわゆる衵姿(あこめすがた)となりました。
 そして、この省略の風潮は時代とともにさらに甚しくなり、衣をも略して単だけを上にはおり、または単を用いずに衣だけを着るようになっていきました。

1-4.小袖袴・大腰

小袖袴
 装束簡易化の傾向は、とどまる所を知らず、ついに鎌倉時代の末から、衣・単さえも脱して、小袖袴だけのいわゆる「はだか衣」姿となりました。
 そして、やや改まった時には、この上に衣を着しました。

大腰
 こうして近世の女房は、通常、小袖袴を用いるに至りましたが、この際の袴は、普通の紅袴よりも長く、およそ五尺六寸(約170センチ)前後で、前後に廻らした腰の紐の幅を広くして、大腰と呼ばれました。着脱の便を良くするために袴の後腰に厚紙を入れて折れないようにし、その紐の先は前後合わせて 「ひっこき」に結びます。着用に際しては、ただ足を踏み込んで引き上げたままで、歩行には紐の結び目を右腕にかけて下がらぬようにし、働く時にはその結び目を肩にかけ、着座した後は、かけた紐を外して置くこととして、袴の使用も全く形式化されました。
 髪は、前髪に両鬢を張らせて垂髪とした、いわゆる「おちゅう」(女房装束の対に対して小形なので中と称したことによる)で、眉を剃り落して別に置眉(おきまゆ)を立て、紅大腰袴に、葵唐草文様を浮かせた小袖三枚重ねを着寵め、「ひよ」を肌着としています。

1-5.打掛・腰巻

 このように女房装束は、しだいにその上衣を簡略化して、小袖袴のはだか衣となり、禁中はこれから進展して大腰袴姿となりました。そして武家をはじめとする一般は、室町時代の末には、さらに袴さえも省いて、小袖を数枚重ねた着流し姿をもっぱらとするようになったのです。

打掛
 ここに於いて小柚は、従来の下着としての意味合いを脱して、外部に現われるようになったため、裄丈ともに大形となり、裂地にも華麗な織物を用い、また、禁中の女房のような制限もないために、好みに任せて唐織・繍・摺箔など綺羅を尽くしたものが出来てきました。
 それとともに、このような小袖の上着を、下着の小袖と分離して、旧来の袿のように、上から打ち掛けて礼容を整えるように変わっていきました。
 これを打掛と称して、かつての袿に類似しますが、袿が広抽なのに対して、これは小袖であることを特色としています。
 歩行に際しては両褄を掻い取って引き揚げることから掻取(かいどり)ともいいました。

腰巻 
 通常は、打掛の下の小袖を間着(上に打掛を着けない時には上着という)として、さらに下着と重ねて用いましたが、ただ夏の祝儀の際などには、打掛を肩からはおらずに、袖を脱いで腰に纏い、上半身には間着の小袖を現わして着用するようになっていきました。この着用方法から腰巻と称して、室町時代末期以後、武家の女子はこれを形式化して礼装として用い、江戸時代に及んでは、将軍および三家、あるいは大名の夫人に限り、夏期に於ける式日、儀式の際の着料としました。

1-6.旅装束

女子の旅装には壷装束とむしたれ衣の二つがありました。

壷(つぼ)装束・壺折(つぼおり)装束
 これは小袖の上に単を省いて袿をはおり、これをついたけにたくりあげ、腰のあたりに紐で結び、市女笠 (いちめがさ)という深い笠をかぶります。また、笠を用いない時は、この衣を頭上からかぶっていました。
 足にはきゃはんの類をつけ、わらじ、藁履などをはきます。また徒歩の場合は指貫をはくこともありました。これを壷装束というのはその上の衣をつぼねたところからきています。後の「きぬかずき」、またはただ「かずき」にその形が残っていきました。

むしたれ衣
 これは、からむしの繊維で織った薄い織物を、笠の周囲に垂らしたもので、歩行の時も、また馬上の時にも用いました。

1-7.湯巻

「ゆまき、いまき、よまき、よまぎ、えまき」などという言葉が、方言として一部に残っています。
 十世紀後半の作とされる『宇津保物語』に

 「春宮の若宮の御迎湯に参り給ひし内侍
 すけ、白き綾の生絹に単襲の袿上に着
 て、綾のゆまき、御ふねの底にも敷き、
 迎湯はかんのおとど、白き綾の袿襲同
 じき裳一襲結ひ籠め給へり」

とあるように、平安時代湯巻というのは、貴人の入浴に奉仕する女官が、水にぬれるのを防ぐために、腰に巻いた裳の一種でした。

 このように、湯巻、今木は本来実用的なものでしたが、鎌倉時代になると、御湯殿に奉仕しない時も着用されるようになりました。それはこの時代すでに、唐衣裳の装束は極上流婦人の正装となり、一般女房の正装は衣袴であり、この衣袴の袴を略した裳袴(もばかま:丈の短いあんどん袴形式のもの)の姿が公服として認められるまでに、公家における服装は簡略化されていたからです。

 そうした背景があって、湯巻が裳袴に類似したものとして、平常に用いられるようになっていきました。

 武家では、十三世紀の中頃には、今木は女房の服装を構成する重要な具となり、そして、室町時代には礼服の具とさえなったのです。
 用布もはじめは白の生絹(すずし)であったようですが、後には文様のあるものも用いられたようです。

 ところが、江戸時代になると、これとは別に入浴に際して腰に巻いた布(湯具)も湯巻と呼ばれるようになり、更にそれから転じて、湯文字、腰巻を意味することになり、方言として伝承されてきたのです。

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