花 郎(ファラン)

 花郎は、新羅の真興王(在位540 - 576)の時代に確立した青年貴族たちの教育制度とされています。一般的に、花郎は新羅の美男子エリート戦士集団だったと広く信じられ、上級貴族の15〜16歳の美少年の中から団長として選ばれた性行の正しい男子のもとに多くの青年が郎徒として集まって「貴族の美少年結社」を作り、集団で生活したといわれています。また、化粧し、着飾って(あるいは女装して)、歌楽や名山勝地での遊楽を通じて精神的・肉体的修養に励み、戦時には戦士団として戦いの先頭に立って戦ったとされ、この花郎の花郎に選ばれた者は、新羅滅亡まで200余人を数え、各花郎に属した花郎徒はそれぞれ数百人から1000人に及んだと伝えられています。高句麗、百済、新羅の三国を統一に向けて推進した武烈王(金春秋、在位654 - 661)やその将軍金庚信(キム・ユシン)は、いずれも花郎出身でした。韓国では、護国の花であり、最高の青年文化だと賞賛を受けています。

 しかし、建国大のシン・ボンニョン教授によれば、新羅時代の花郎がそのような肯定的な評価を受けはじめたのは、ほんの50年ほど前のことです。
 朝鮮戦争のとき、李承晩大統領が青年の愛国心が必要であると考え、当時の陸軍本部の政訓監で、のちに精神文化研究院長となった歴史学者 イ・ソングンに、韓国史から青年文化の遺産を発掘するように指示し、これに従って彼が「花郎徒研究」(1954)を出版し、それから花郎は一夜にして韓国史で最も偉大な青年文化の遺産として注目されるようになったというのです。

 花郎を取り上げ評価したのは、1930年代の日本の歴史学者、池内宏、三品彰英、鮎貝房之進の三氏でした。
 池内宏は、花郎は武士道であったことを前提にして解釈を行いました。池内宏は、美貌の男子を選んで化粧させたり着飾るような非常識なことが行われるはずがないとして、記事を創作と見なして否定しました。三品彰英は、花郎の源流を原始時代韓族の男子集会に求め、花郎の特徴は原始宗教と解釈しました。 また、鮎貝房之進は、同性愛など性的なものと解釈していました。しかし、まだ当時は、そんなに注目された存在ではありませんでした。

 花郎に関する記録は、「三国史記」と「三国遺事」に記載されているものがほとんどすべてです。
 「三国史記」は高麗の儒臣金富軾(キム・ブシク)が1145年に編纂した史書で、朝鮮における現存最古の歴史書です。当時、高麗は宗主国の宗に服従しており、中国崇拝主義者の金富軾は、「三国史記」を漢文式で書き、さらに、書き終わったあと、参考にした韓国の古い記録を全部処分させたといいます。当然のことながら、自分の書いた「三国史記」が最古の歴史書となる訳です。
 自国の文化を、中国から侮られないように、美化していることは十分に考えられますし、どこまで信頼できる史書であるかは、自ずと疑われるべきものです。
 それに、李氏朝鮮王朝時代(1392年〜)には、花郎は男芸者を意味する言葉に変っているのです。
 また、「三国遺事」は、高麗の僧一然が1280年代に著したもので、935年に新羅が滅亡してから、三百年以上後の書物です。

「三国史記」、新羅本紀真興王三十七年の花郎の記事には、

「三十七年 春 始奉源花。初君臣病無以知人、欲使類聚群遊、以觀其行義、然後擧而用之。遂簡美女二人、一曰南毛、一曰俊貞。聚徒三百餘人、二女爭娟相妬。俊貞引南毛於私第、_勸酒至醉、曳而投河水以殺之。俊貞伏誅、徒人失和罷散。
其後、_取美貌男子、粧飾之、名花_以奉之。徒衆雲集、或相磨以道義、或相_以歌樂、遊_山水、無遠不至。因此知其人邪正、擇其善者、薦之於朝。」

とあります。

 37年 [576] 春 はじめて源花を奉じました。はじめ、君臣たちは人材を見わけることができないのを憂い、おおぜいの人たちを集めて遊ばせて、その行儀を観察してからこれを登用しようとしました。ついに美女ふたりを選別しました。ひとりは南毛といい、他は俊貞といいました。仲間が三百余名集まると、このふたりの女はその美貌を争って相いに嫉妬しました。俊貞は南毛を自分の家に誘ってむりに酒を勧めて酔わせ、彼女をひきずって行って河水の中に投じて殺してしまいました。そのため俊貞は死刑にされ、彼女の仲間たちは和を失って散り散りになりました。
 その後 ふたたび美貌の男子を選び、化粧させ着飾らせて花郎と名づけて優遇すると、おおぜいの若者たちが雲のように集まってきました。あるいはたがいに道義を練磨し、あるいはたがいに歌楽をもって楽しみました。景色のよい山や川を訪ねて遊び楽しんで遠くとも行かない所はありませんでした。これによってそのひととなりの正邪を知って、そのうちからよい者を選んで朝廷に推挙しました。

 花郎は最初、源花(ウォンファ)と呼ばれ、当初女性でした。
 初めての源花として、南毛と俊貞という二人の女性の名が出てきますが、普通、女性の名を親族以外に明かすことはなく、まして、女性の名が書物に書かれることはきわめて異例なことです。この二人が、極めて高い地位を持っていたことが窺われます。
 新羅には、母系社会の風習が色濃く残っていました。政治と宗教が明確に区分されなかった母系中心の新羅では、源花は、集団長であると同時に祭主(巫堂(ムーダン;巫女))であり医女であったのです。
 「三国遺事」の原本には、花郎が「花郎」ではなく「花娘」と書かれています。
 花郎は、もともと「花のような女性」という言葉だったのです。たぶん、源花が花郎に変わっても、最初の頃、花郎は女性だったのでしょう。

 新羅後期になると花郎は、「国仙」と呼ばれ、最初の人物はソル・ウォルランでした。このころには、花郎は、女性から男性に変わっていたようです。

 金大門の「花郎世紀」には「賢い補佐の臣と忠臣がここから育ち、良将と勇卒がここから生まれた」と記されています。「三国史記」には、高句麗、百済、新羅の三国時代に終止符を打った新羅の金庚信(キム・ユシン)将軍など幾人かの有名な花郎の伝記が伝えられています。
 たぶんこのことから、花郎徒を戦士団として考えたのだと思われますが、史書に多数登場する花郎の中で、軍事的伝記を持つのはたった5人だけです。つまり、花郎自体は軍事的なものではなく、花郎の中から選ばれたり、生まれたと記されているだけなのです。しかも、高麗朝では国仙は兵役を免除されていたのです。もともと花郎に武人的な意味合いはなかったのではないでしょうか。

 「三国史記 」真興王37年条では、花郎の選抜基準は、「顔が美しい男性」とされています。
 唐の令狐澄の「新羅国記」にも「貴人の子弟で美しい者を選びだして白粉をつけ飾りたてて名づけて花郎といい、この国の人たちはみな尊敬している」と記されています。女性の場合は、化粧することも着飾ることも当然のことですから敢えてこのような記述があるのは、選ばれたのが男性だからです。
 化粧し着飾るのは、世界各地に見られる女装神官や女装の覡(かんなぎ)と同様に、女性の花郎のもっていた神秘的な力や女性の生命を生み出す力を取り込むことを象徴しているものでしょう。
 野や山に遊ぶというのも、先祖崇拝や風水の思想的背景を連想させます。国家の重要事項である戦争の前に、吉凶を占うというのも古代の戦争では常識です。このための国家的役職があっても不思議はありません。男性の花郎が化粧したり着飾たりしながらも、人々の尊敬を集めているのも巫堂としてなら納得がいきます。「三国史記」には、花郎が女装したとまでは記されていませんが、宗主国である中国の男尊女卑の文化に追従しながら、中国に受け入れられるように、女装神官である花郎の存在を美化した表現にも受け取れます。
 花郎は、新羅での母系社会の崩壊と聖職者の女性から男性への地位の転換を象徴しているものではないでしょうか。

参考文献 三品彰英「新羅花郎の研究」


    

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