偽 籍

 昔、日本では、男を女として戸籍に登録する「偽籍」が盛んに行われた時代がありました。

 663(天智天皇2)年 倭・百済の連合軍が白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅の連合軍に敗退した後、朝廷は九州の防衛を強化し防人・烽の設置や要害の地に朝鮮式山城を築き、守りを固めていきました。
 668(天智天皇7)年 唐・新羅の連合軍が高句麗を滅ぼし、朝鮮半島全土を自領に組み込むと、近江朝廷は、次は唐軍による日本来攻があるにちがいない、との危惧を抱き、徴税・徴兵体制を整備するために、天智天皇、大友皇子らの主導のもとに,全国規模で編戸(一里を50戸とする)と造籍を強制的に行いました。
 これが、670年の庚午年籍(こうごねんじゃく:この年が庚午にあたる)です。
 『日本書紀』天智天皇9年2月条には,「戸籍を造る。盗賊と浮浪を断つ」と記述されています。
 当時、豪族層のあいだでは氏姓(うしかばね)と名をもち、漢字を用いて表記する慣習が定着していたのに対し、大多数の一般人は無姓でした。それがこの機会に,彼らすべてに氏姓や名を付け,かつ漢字を用いて表記登録させるという手続を全国的に強行し、朝廷が戸あるいは戸口を直接把握するということになったのです。
 人々は良民(公民など)と賤民(せんみん)に分けられ、更にその内にさまざまの身分がありました。賎民は「五賎」といって、官戸・陵戸・家人・公奴碑・私奴碑に分けられていました。当時は人間の売買が認められており奴は男性の、婢は女性の奴隷のことです。良民でも、品部(ともべ・しなべ)や雑戸(ざっこ)は一段低くみられていました。

 この造籍によって 「改新の詔」(646(大化 2)年)で導入された班田収授法が、本格的に実施されることになります。692(持統 6)年の班田が実施の最初と考えられています。
 班田収授法は、唐(当時の中国)の均田制にならった制度です。唐では良民成年男子のみを対象としていますが、日本では、女子や奴婢までも対象としていることが大きな違いです。
 6年ごとに戸籍・計帳(税を徴収するための基本台帳)を作り、土地を全て公有とし、田を班って資格のある男女に給田しました。
 6歳以上の男子に2 段(約2.3ha)、女子に 1 段 120 歩(家人・私奴卑はそれぞれその 3 分の 1)が与えられました。田を分ける時の「田図」という地図が作られ、居宅の近くの田が、戸ごとにまとめて戸主に支給されました。これが口分田です。権利は一代限り、売買は禁止で、死んだら返えしました。

 大宝律令では、口分田を与えられた農民には、土地を支給する代わりに、「租」が課税されました。「租」以外にも、男には年間10日間、都で肉体労働をするか、代わりに布を納める「庸」や、絹や地方の特産物を都に運んで納める「調」という税金がありました。また、地元で年間60日間、土木工事で働く「雑徭(ぞうよう)」というものもありました。
 その他、正税として「出挙(すいこ)」という税をかけていました。これは、春に種籾を貸し付け、秋に利息とともに徴収するという租税です。その利息の稲を正税利稲といいます。
 農民にとって租・庸・調の取り立てはとても厳しいものでした。しかも男子は兵にとられたり、雑徭(ぞうよう)や出挙(すいこ)もあって、負担に苦しむ農民が、浮浪人・逃亡人となって、負担を逃れる例が多くなりました。多いときには5人に1人が浮浪人というありさまでした。このため耕されずに荒れはてた口分田があちこちに見られたと記録に残されています。

 このころ、男を女として戸籍に登録する「偽籍」も見られるようになります。
 学校の教科書などでは、課役を負担しないための方策などと通り一遍のことしか書かれていませんが、一生女として暮らすこともできませんし、農民が嘘の申告をしてもばれないというほど、世の中はそんなに甘いはずもありません。

 常陸国の戸籍(9世紀初め)の例では、二つの戸(血縁関係を中心に複数の世帯を含んだ大家族で一戸をなす)では、人数55人の内、50人が不課口(人頭税がかからない)で、そのうち45人が女性となっています。
 こんなに女ばかりの家があるはずはありません。これは、農民と役人が結託し、さらに、国の最終的な責任者である国司も認めた産物、つまり公式な「ウソ」の戸籍なのです。
 国司にとって、人頭税がかからない人間がばかりであれば、中央へ送る租税(庸調)は少なくて済みます。本当の分との「差額」は、国司や郡司やその他の有力者が手に入れることになるわけです。農民の実質的な負担は、それほど軽くはなるはずもありません。

 国司は、中央から派遣され地方の有力者を郡司などの地方役人に任命し、さらに郡内の有力者(当初は里長(さとおさ)といわれた)を通して農民を支配しました。
 国司は、律令制の崩壊に便乗して、任期中に私財を蓄え、郡司やその他の地方の有力者も、逃亡人らを抱え込み、墾田永世私財法によって合法的に土地を開墾して私有を拡大し、私腹を肥やしていったのです。

 797(延暦16)年、桓武天皇は、国司の不正をただすために、勘解由使(かげゆし)の制度をおきますが、結果は、歴史が示す通りです。

(言葉の意味)


土地の面積を表す単位です。
713(和銅 6)年の唐尺採用後は 360 歩を 1 段としました。
1 歩は約 3.3Fであることから、2 段は約 2,376Fとなります。

開墾
原野を切り開き耕し畑や水田にかえること。

班田収授の法
男子には2反(現在の23アール)、女子にはその2/3,奴は良民男子の婢には領民女子のそれぞれ1/3の田んぼが貸し与えられました。この田のことを口分田(くぶんでん)といい,その人が亡くなると土地を返すということが決められました。

奴婢
奴隷のことです。当時は人間の売買が認められており奴は男性の,婢は女性の奴隷を指します。こうした人々は賤民(せんみん)と呼ばれ、一般の人々である良民(りょうみん)と区別されていました。奴婢の数は当時の人口の約10%といわれています。

租・庸・調
租はお米、庸は労役のかわりに布などを、調は織り物や地方の特産物を、いずれも都まで運んでおさめる税でした。なお、租は収穫高の約3%といわれています.

雑徭
1年に60日以内地方の労役に出ること。とても大きな負担でした。

出挙
役所が種もみを貸し出し、収穫後に利子と合わせて稲をとりたてること。

三世一身法
新しく開墾した土地は親子孫の3代までは自分の土地にして良いという法律。4代目には返さなくてはなりませんでした。

墾田永年私財の法
新しく開墾した土地は完全に私有化して良いという法律。初めの頃は身分により限度が決められていましたが、奈良時代の終わりには限度は無くなってしまいました。

豪族
地方の有力者のこと。大和政権時代から力を持ってその地方を支配していた一族のことです。律令時代となっても地域での影響力を持っていました。多くは郡司(ぐんじ)になっています。


    

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