日本の神社のうち数がもっとも多いのが稲荷神社で、三万社とも四万社ともいわれます。
稲荷神は、奈良時代の和銅四年(西暦711年)二月九日の初午(立春後の最初の午の日)に渡来の有力氏族で、山城国(京都)深草を拠点のひとつとしていた奏氏(はたし)の遠祖・伊侶具公(いろぐはたのきみ)が、この地に一族の鎮守神として三柱神(宇迦之御魂大神・佐田彦命・大宮女命)を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのに始まると伝えられています。
この年五穀は大豊作となり、天下の農家たちは大いなる福を得たのだそうです。この秦氏が開いた神社が、今日の京都伏見稲荷大社です。
稲荷の名は稲が生える「イナナニ」の訛りとも言われ、保食神(うけもちのかみ)が月読命(つきよみのみこと)に殺されたとき、その腹に稲が生えたという神話が日本書紀などにあることから、稲荷「稲生り」が、宇迦之御魂大神(うがのみたまのかみ)(保食神)の神名となったとされています。
土着の田の神信仰では、狐を神の使者あるいは田の神そのものと考える(※)ことが多かったため、稲荷神と狐が結びつけられ、狐を稲荷神そのものと考えるようにまでなりました。
各地で見られる「狐の嫁入り」は、田の神信仰(豊作祈願など)と一体のものです。
しかし、稲荷信仰は、真言宗との結びつきによって繁栄していくなかで、本来の農業神から商業や工業などの産業の守護神としての性格も持つようになり、都市部や個人が屋敷神として祀ることも流行し、あらゆる願い事をかなえてくれる万能の福神となっていきました。
空海(弘法大師)は、平安時代初頭に朝廷から東寺(教王護国寺)を与えられたとき、稲を担いだ老人(稲荷神)に出会い、奏氏の氏神であったものを、東寺の鎮守神としました。
天長四年(827年)空海が教王護国寺の搭の用材に稲荷神社の神木を伐ったところ、稲荷神社のタタリがあり、それを鎮めるために従五位下の神階が授けられました。稲荷神には、この後幾度も神階が授けられ、天慶五年(942年)には、最高位の正一位を授けられます。稲荷神社は平安時代を通じて朝廷の奉幣を受け二十二社のひとつとされ、延久四年(1072年)、後三条天皇が始めて稲荷神社に行幸されて以後は、鎌倉時代まで祇園社と共に両社が行幸の例となっています。
貴族の間では狐を炎魔天の使いとし、これに福徳を求める信仰が流行しました。源平盛衰記では、平清盛は狐を妙音天(弁財天)の化身、貴狐天王とよんで尊崇し、世間では、その通力で栄達をとげたと信じられていたといわれています。
真言密教では、稲荷神を茶枳尼天 (だきにてん)と同一としました。
茶枳尼天は夜叉または羅刹の一種で、自在の通力を持ち6カ月前に人の死を知りその心臓を取り出して食うとされ、茶枳尼天の法を修めると、自在の力が得られるとされることから、修験道でも盛んにこの法を修めました。
平安時代後期には茶枳尼天(だきにてん)の本体は霊狐とされるようになり、白晨狐王菩薩(びゃくしんこおうぼさつ)とも呼ばれました。稲荷神社では真言密教(東密)の行法が盛んに行われ、密教系の稲荷行者によって稲荷信仰が諸国に広がっていくと、いつの間にか民衆の間では、稲荷大神のご祭神と狐が混同して理解されてしまったわけです。
中世には修験の霊場・信州飯縄(飯綱)山の飯縄権現も茶枳尼天とされ、江戸時代には稲荷下げ、狐下げが流行し、各地に広まっていったのです。
※ 狐を田の周辺で見かける時期(だいたい4月〜9月の期間)が、稲作の時期と重なっていることから、狐は、山の神(田の神)と何らかの関わりがある(これから山の神が田の神になり、地上に降りることを知らせる先触れの動物)と見る様になったといわれています。(「狐は農家にとってネズミを捕食する益獣という見方が根元にある」という説が有力とされている様です)