戦乱と女装2

 戦乱の中で、女装して脱出したり、戦を避けようとした人たちもいました。
 トロイの戦いで、アキレスの母テティスは息子がこの戦いに行けば死んでしまうことを知って、アキレスを女装させて侍女の中に隠した話等は有名ですが、日本の歴史の中にもいろいろな例があります。

◆二条天皇(平治の乱 )

 保元の乱(ほうげんのらん)の後、後白河法皇をめぐって藤原通憲(みちのり)と藤原信頼(のぶより)とが反目し、藤原通憲は平清盛と、藤原信頼は源義朝と結んで対立しました。
 平治元年12月9日(1159)、清盛が熊野詣でに出かけて京都を留守にしている虚をついて、信頼・義朝の軍勢は三条烏丸にある院の御所を急襲しました。御所に火を放ち、後白河上皇及び上皇の姉である上西門院を内裏の東側にある一本御書所に幽閉、通憲は奈良への逃亡中に自害し、梟首されました。次いで内裏を占拠した信頼・義朝らは二条天皇を清涼殿の北側にある黒戸の御所に押し込め、クーデターは一端の成功を収めました。
 しかし熊野参詣を中止し帰京した平清盛に敗れ、藤原信頼は斬罪に処せられました。
 この時、二条天皇は御所内の藤原経宗の手助けで女房姿になり、車で内裏を脱出、清盛の六波羅邸に迎えられました。怪しんだ兵たちが弓筈で車の簾をあげて中を見ると、17歳の二条天皇はまばゆいほどの美女に見え、兵たちはそのまま車を通したそうです。(平治物語)
なお、義朝嫡子の源頼朝は助命され流罪となり伊豆に流され、20年後の決起旗揚げまで流人生活を送り、 また、常磐御前所生の今若(阿野全成)・乙若(義円)・牛若(源義経)の幼い三兄弟も助命されています。

◇源義経(義経記)

 「義経記」は、物語としての面白味を出すため、多くの誇張、強調がなされています。特に義経は、彼は容姿、才能等の面でずいぶんと美化された姿で描かれています。
 「平家物語」では、義経の容姿は、「背が小さく、色白で前歯が出ている」とあると書かれているのに対し、「義経記」では、「見目かたちが類なく、唐の玄宗皇帝の楊貴妃か漢の武帝の李夫人かと疑うほどの美男子である」と描かれています。もちろん、女装の場面もあります。

 「義経記」巻2では、

玄宗皇帝の代なりせば、楊貴妃とも謂つ〔べ〕し。漢の武帝の時ならば、李夫人かとも疑ふべし。傾城と心得て、屏風に押纏ひてぞ通りける。

 盗賊が、黄金商人吉次をねらって鏡の宿の長者の屋敷に押し入った時、遮那王(しゃなおう=源義経)が小袖を被り屏風の陰にひそむのを、盗賊たちは遊女と思い押しのけて通っていきます。これを遮那王は大勢の中に斬り込み、縦横に活躍する場面が描かれています。

 また、「義経記」巻3では、

只今までは男にておはしつるが、女の装束にて衣打被き居給ひたり。武蔵坊思ひ煩らひてぞありける。中々是非なく推参せばやと思ひ、太刀の尻鞘にて脇の下をしたたかに突き動かして、「児か女房か、是も参りにて〔まいりうど(人)にて〕候ぞ。彼方へ寄らせ給へ」と申しけれども、返事もし給はず。

 義経が被衣をかぶり女房装束を着て、清水寺で通夜していると、彼を追って来た弁慶は、経を読む義経の後ろ姿を男か女かはかりかね、太刀の尻鞘で脇を突いて、「稚児か女房か」と問う場面が描かれています。

◆木曾義高

 木曾義高は木曾義仲の嫡男です。木曾義仲は、従兄弟の源頼朝と対立状態となり、寿永2年3月(1183)、鎌倉に嫡男・義高を人質として送り和議を結びました。頼朝は、木曾義高と娘の大姫を婚約(義高11歳、大姫5歳の時)させますが、木曽義仲が越前で敗死してから数ヶ月後、将来の禍根を絶とうと頼朝は義高の殺害を決意しました。
 北条政子は、密かに義高を逃がそうとしました。
「女房総出でお宮参りに行きましょう。その時、私が、奉納する硯をあなたたちに託しますので、それを 持ってお出かけなさい。その女房の中に、女装させた義高を混ぜておくのです。お宮には、足に布を巻いて足音を立てずに走れるようにした馬を用意しておきますから、そこで着替えて馬に乗って逃げるように。」
 義高脱出には、幼妻の大姫はじめ女房たちが共謀して、女装した義高を取り囲んで連れ出し、蹄を綿で包んで隠した馬で郭内から逃したと、「吾妻鏡」は記しています。
 そのとき義高の身代わりとなって、双六に興じる振りをして周囲を誤魔化したのは、同じ歳で木曾から義高に従って来た海野小太郎幸氏でした。小太郎は、義高の着物を着て、屋敷の中で義高として振舞っていました。その日一日、必死の演技をしつづけたのです。
 その甲斐あって、義高は無事、馬に乗り換え、鎌倉脱出を果たしたのですが、屋敷にいるのが義高の替え玉であることがばれるや否や、すぐに追っ手が差し向けられ、鎌倉からさほど遠くない入間河原で捕らえられて討たれてしました。

 義高が討たれたことが幼妻の大姫に伝えられたのは、脱走から六日後のことでした。未来の夫と成るべく人、義高が父・頼朝に殺されたと知った大姫は、悲しみの余り病に伏せる身となり父頼朝の薦める縁談にも耳をかさず、鬱々とした日々を過ごすばかりでした。そして、建久8年に大姫は24歳の若さで死去します。
 不思議なことに、義高の身代わりとなった海野小太郎幸氏が、その後頼朝の近侍に加えられて本領を安堵されたのに対し、義高を討って功績があったはずの堀藤次親家の郎従は、それから二ヶ月後に梟首されています。

◇後醍醐天皇(南北朝の始まり)

 後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画は正中の変(1324)、元弘の変(1331)と2度失敗しました。

 元弘の変では、正中の変と同様に事前に発覚し、首謀者として日野俊基・文観(もんかん)らは逮捕され、幕府はさらに天皇自身にも追求の手を伸ばしました。そして幕府が追捕の兵を派遣すると、天皇は8月24日の深夜、女装して御所を脱出し、三種の神器の神璽(しんじ)と宝剣を奉じて笠置寺にたてこもりました。
 皇位は、幕府のあっせんのもと、「持明院統」と「大覚寺統」の二系統が交互に継承する「両統迭立(てつりつ)」の状態が続いていました。体制そのものを毀(こわ)さない限り、大覚寺統の、しかも第二皇子である後醍醐天皇が、我が子に皇位を譲れる可能性はなかったのです。
 幕府は、持明院統の光厳(こうごん)天皇を擁立し、笠置山を攻略。後醍醐天皇は、捕らえられ翌元弘2年(1332)3月隠岐の島に流されました。

 一年もたたない元弘3年2月、天皇は暗夜に女装して島を脱出します。
 楠木正成・護良親王らの挙兵で畿内は騒乱状態となりました。北条幕府側の足利尊氏の寝返り、楠木正成、新田義貞、北畠親房・顕家親子らの活躍により、元弘3年(1333)高時以下北条一族は鎌倉で自殺。源頼朝が築いて以来140余年にわたる鎌倉幕府は滅亡しました。
 隠岐を脱出して船上山で討幕運動を指揮していた後醍醐天皇は、天皇親政による新政権の樹立に成功したのです。

 しかし、建武の新政は2年にして崩壊してしまいました。新政に失望した武士たちは「足利尊氏」に幕府の再建を期待しました。建武2年(1335)、尊氏は「中先代の乱」を機会に関東にくだり、鎮圧後、反旗をひるがえし、天皇方の軍と戦い京都を制圧して「光明天皇」を擁立しました。
 延元元年12月21日(1336)の深夜、後醍醐天皇は幽閉されていた花山院から脱出しました。「太平記」によれば、後醍醐は童達の踏み開けた破れ築地から女装して紛れ出、刑部大輔景繁の用意した馬に乗って吉野に移り、朝廷を再建(南朝)したのです。これを契機として、以後、60年にわたる南北朝の争乱に突入していきます。

◆後花園天皇(南朝遣裔(なんちょういえい)の乱)

 嘉吉3年9月23日(1443)夜。前の権大納言・日野有光と、後亀山天皇の曾孫・尊秀王が共謀し内裏に侵入して放火、神璽・宝剣を奪って延暦寺に立てこもりました。女官の機転で女装した後花園天皇は、からくも脱出に成功し近衛忠嗣の家に駆け込んでいます。翌日天皇が討伐の詔を出すと、26日には延暦寺の衆徒が有光と尊秀王を殺害。乱は終結しましたが、神器は宝剣以外その後16年間行方不明となりました。

◇春王と安王(結城合戦)

 関東管領鎌倉公方の足利持氏は、将軍職を望んで室町幕府に叛逆を謀りましたが、永亨11年(1439)将軍足利義教によって討滅され、持氏は鎌倉永安寺で自害しました。(永享の乱)
 その翌永享12年(1440)上杉憲実が関東管領となり実権を握ると,結城氏朝は管領家の再興をはかり、持氏の二男春王と三男安王を奉じて挙兵し、常陸・結城城に籠城して半年にわたって幕府軍と壮絶な戦いを繰り広げました。翌年4月落城寸前に、13歳の春王と11歳の安王は女装して脱出をはかりましたが、見破られ捕らえられると、氏朝もこれまでと切腹し戦いは終わりました。春王と安王は京都に護送される途中、美濃の金蓮寺で斬殺されています。

◆歓寿丸(大寧寺の変)

 山口県俵山温泉から約1キロ離れた山すそに「麻羅観音」があります。
 男根を祀った観音様で、子宝と子孫繁栄や健康増強を祈願する参拝客が訪れ、観音堂に数百本にものぼる「奉納品」があります。

 この観音様の由緒書は次のようなものです。
 天文20年(1551年)8月28日、中国地方の太守・大内義隆公は家老の陶晴賢に攻められ、追い詰められた義隆は、9月1日、湯本温泉の大寧寺(長門市深川町)で自刃して果てました。この時、大寧寺の異雪和尚は義隆との約束で長子の義尊の助命を計り仏門に入れることを約束し、裏山から逃亡させます。しかし、翌日2日に上安田の地で追手に捕らえられ、家来近習と共に殺されました。
 三男の歓寿丸(義教)は女装させられて山中にかくまわれていましたが、翌春5月に捕らえられて、この地で殺され、男児の証拠に男根を切られて持ち去られたのです。里人はこれをあわれんで、この社を建てて霊を慰めたというものです。

 歓寿丸の存在は明らかではなく、観音堂の建立年代もはっきりしていませんが、この観音は、悪霊の侵入を防ぐ道祖神信仰につながるものともいわれています。

◇千束楽(栂牟礼合戦)

 大分県佐伯市宇目千束の鳶野尾神社で毎年9月の第3土曜日と日曜日の祭礼に行われる千束楽(せんぞくがく)は、360年の歴史を持ち、八匹原(はちくばる)祭典で五穀豊穣を祝い奉納される楽です。

 神社の祭事由来書によると、
 大永7年(1527年)栂牟礼(とがむれ)城主佐伯惟治は豊後国探題大友義鑑の不信を蒙り、大友義鑑は臼杵城主臼杵近江守長景に追討の命を下しました。
惟治は栂牟礼城を追われて日向国三河内(宮崎県延岡市(旧北浦町))の尾高知山に遁れましたが、ここで三河内の新名一党に攻められ奮戦のすえ、武運つたなく自害しました。この時、女・子供は見逃すとの誓言があり、生き残った数名の重臣が准治の遺品を隠し持ち、刀を野草に包み、槍先に野草や野花を差して女装したり女道化師に変装して、鉦や太鼓を打ち鳴らし踊りながら敵陣を脱出したと伝えられています。

 この古事に習い、この重臣数名の踊った踊りを楽化したものが大原楽と言われ、もとは女装で踊られていましたが、明治以降、政府の祭政一致の方針に基づき神格化され白衣にかわりました。この大原楽は、後継者不足で昭和43年になくなりましたが、明治期に、千束の鳶野尾神社に伝えられて、現在も引き継がれています。

 http://www.sanson.or.jp/mura/mura130/ume3.html

    

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