戦乱と女装1

 戦争にも、ルールがあります。
 しかし、ルールは破るためにあるというか、勝つために手段を選ばない者が勝ち残っていきました。かつて、互いに名乗りを上げて一騎打ちで戦っていた戦いは、大規模、広範囲になるにつれて、対象が無差別化し、残虐化していきました。
 かのシュバイツァーが、人食い部族の族長に世界大戦の話をしたら、「食べもしないのに、何故、何百万人も殺す必要があるのか」と言ったといいます。文明の進歩に反して、人の心は貧しくなっていくものなのでしょうか。

 古代インド・中国の戦いの中では、女装は服従の象徴としてみなされていました。

 古代インドの戦いでは、相手の王は生け捕って、殺しませんでした。そして、女の衣服を与えました。彼は、屈辱のあまり自刎したといいます。(玄奘「大唐西域記」)

 五丈原の戦いで、魏の軍師・司馬仲達は、稀有の天才軍師である蜀の諸葛孔明の策略を恐れ、守りに徹しました。そんな時、司馬仲達は敵の軍師である孔明から女性の服を贈られました。「臆病者は女装でもしてろ」という侮辱でした。当然魏の勇猛な武将たちは怒って司馬仲達に出陣を促しましたが、彼は笑ってその場をその場をやり過ごしました。

◆倭建命

 戦いでの女装といえば、日本ではヤマトタケルノミコトが有名です。
「ヤマトタケルノミコト」は、第12代景行天皇(けいこうてんのう)の第3王子で、古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と記し、小碓命(をうすのみこと)・倭男具那命(やまとおぐなのみこと)(古事記)、小碓尊(をうすのみこと)・日本童男尊(やまとおぐなのみこと)(日本書紀)の幼名があります。母は吉備臣(きびのおみ)の祖で若建吉備津彦(わかたけきびつひこ)の娘針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)とされています。尊とは、天皇の後継者を示す称号です。
 小碓命は、双子の兄大碓命を殺すなど、生来の暴力的性向・奸智(かんち)ゆえに王権の中央から疎外され周辺へ放遂され、王権に服従しない王権外部の異端の征討を命じられます。
 九州の熊曾(くまそ)征伐では、小碓命は女装して熊襲の王である川上梟師(かわかみたける)の新築祝いの宴に紛れ込みます。
 多分、歩き巫女の一団に紛れたのだと思いますが、女性に変装したというよりは、女装神子に扮したのではないかと思います。

是に天皇、其の御子の建(たけ)く荒き情(こころ)をかしこみて詔りたまひしく、「西の方に熊曾建(くまそたける)二人有り。是れ伏(まつろ)はず禮(れい)无(な)き人等(ひとども)なり。故、其の人等を取れ。」とのりたまひて遣はしき。此の時に當りて、其の御髪を額(ぬか)に結ひたまひき。爾に小碓命、其の姨倭比賣命の御衣御裳(みそみも)を給はり、劔を御懐に納(い)れて幸行(い)でましき。故、熊曾建の家に到りて見たまへば、其の家の邊(ほとり)に軍三重に圍(かく)み、室(むろ)を作りて居(を)りき。
是に御室欒(みむろうたげ)為むと言ひ動(とよ)みて、食物(おしもの)を設(ま)け備へき。故、其の傍を遊び行(ある)きて、其の欒(うたげ)の日を待ちたまひき。爾に其の欒の日に臨(な)りて、童女(おとめ)の髪の如其の結はせる御髪を梳(けづ)り垂れ、其の姨(おば)の御衣御裳を服(け)して、既に童女の姿に成りて、女人(おみな)の中に交(まじ)り立ちて、其の室の内に入り坐しき。 爾に熊曾建兄弟二人、其の嬢子(おとめ)を見感(みめ)でて、己が中に坐(ま)せて盛(さか)りに欒げしつ。 故、其のたけなはなる時に臨(な)りて、 懐より劔を出し、 熊曾の衣(ころも)の衿(くび)を取りて、劔以ちて其の胸より刺し通したまひし時、其の弟建、 見畏みて逃げ出でき。乃ち追ひて其の室の椅(はし)の本(もと)に至りて、其の背皮(そびら)を取りて、劔を尻より刺し通したまひき。

 景行天皇の王子小碓命は、父天皇から、朝夕の大御食(おほみけ)に陪席しなくなった兄大碓命(おほうすのみこと)に出て来るように教え覚(さと)して来いと命じられました。兄は父に召されるべき美濃の国造(くにみやっこ)の娘二人を、使者である立場を利用して我が物として寝取っていたのです。小碓命は兄が厠(かわや)に入ったのをうかがい、手足をもいで殺してしまいました。父はこの荒々しい性情を恐れ、西方の「熊曾建」(くまそたける)兄弟の征伐にかこつけて宮から遠ざけます。
 小碓命は叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)から女性の衣服上下を授かり、短剣を懐中に出発しました。熊曾建の処に着くと厳重な兵士の警護の下にちょうど新築祝宴の準備で大騒ぎでした。宴の日に小碓命は少女の髪を結い叔母から授かった衣服を着て、席に侍る女達に交じり熊曾建に近づきました。熊曾建兄弟はこの少女を見初めて二人の間に座らせました。宴が盛り上がるのを見定めて、突然小碓命は、懐中の短剣で兄熊曾建の胸を刺し通しました。そして、弟が逃げ出すのを追って背後から捉え刺しました。押し伏されたまま弟は、少年勇者の名を尋ねると、小碓命は、天下を治める天皇から服従しない者どもの征伐を命じられて来た王子倭男具那命であると名告りました。弟は熊曾建と恐れられていた自分達に勝る勇者ゆえに、「倭建命」の名を捧げると言って殺されました。

 この時、日本書紀によれば倭建命は16才。どんな女装姿だったのかちょっと想像できませんが、でも、熊曾建がみそめたくらいだから、そうとう奇麗だったのか、色っぽかったのか、それとも熊曾建は女装者好きだったのか……。

 日本書紀にはこんなふうに書かれています。

其の童女(をとめ)の 容姿(かほよき)に感(め)でて、則ち手を携(たづさ)へて席(しきゐ)を同(とも)にして、坏を挙げて飲ましめつつ、戯(たはふ)れ弄(まさぐ)る。時に、更深(よふ)け、人闌(うすら)ぎぬ

 エロティックな気配を感じさせる表現ですね。そもそも「席(しきゐ)を同(とも)に」するという言葉は、寝所へ連れて行くことを意味していますから、とても一回や二回の女装では、こんな度胸の据わったことは出来ないですね。
 しかし、ヤマトタケルノミコトは、いつも人数的に不利な状況におかれていたのか、戦い方としてはいろいろと卑怯な(頭脳的な?)手段を使っています。

◇葉隠

 女装ではありませんが、「葉隠」では、武士の嗜みとして、

冩紅粉を懐中したるがよし。自然の時に、醉覺か寝起などは顔の色悪しき事あり。斯様の時、紅粉を出し、引きたるがよきなりと。(聞書第2の66)

と、化粧を勧めています。
 これは、戦いの時に、恐怖で顔面蒼白になるのを相手に悟られないようにするためであったり、いつ死を迎えても恥をかかないための心掛けとされていました。

◆敦盛

思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。(敦盛)

 寿永3年(1184年)2月「一の谷の戦い」で源氏の武将・ 熊谷直実(くまがいなおざね)に討たれた若武者・平敦盛(あつもり)は

とつておさへて頸をかかんと甲をおしあふのけてみれば、年十六七ばかりなるが、薄化粧してかね黒なり。(平家物語)

と、薄化粧をして、お歯黒を付けていました。
 平敦盛は平清盛の弟平経盛の末っ子にあたります。このころの化粧は、武士のたしなみとか女装の化粧というよりも公家の風俗に近いのかもしれません。
 しかし、

中納言は思ひかなひぬる心地してうれしきまゝに、頭洗はせなどして、髪もかき垂れなどして見れば、尼のほどにふさふさとかゝりたり。眉抜き、かねつけなど女びさせたれば、かくてはいとゞにほひまさりたりけるをやと見えて、いみじくうつくしげなるを、…… (とりかへばや物語巻3)

とあるように、薄化粧は別としても、当時は、お歯黒はまだ、女性的なものであったようです。
 男性のお歯黒は、鎌倉時代以降、上級武士は戦国末期まで、宮中や公家では江戸末期まで続きました。女性の場合、江戸時代になると庶民化して既婚者の風俗となりますが、明治時代の文明開化とともに、次第に廃(すた)れていきました。

    

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