陰 間

 歌舞伎が野郎歌舞伎となってからは、どうしても女役専任の俳優、すなわち女方(おんながた、おやま)が必要となります。そのころは、まだ鬘が開発されていなかったため、紫の袱紗で月代を隠す紫帽子(または野郎帽子)というものが開発され、女方のシンボルともなりました。

 女方が専任になるにつれて、舞台に立つまでにはある程度の修行期間が必要になってきます。女方の養成として、幼少の男児を預かることは上方から始まったようです。
 男児たちは、役者の候補生として種々の芸を仕込まれ、芸が未熟な内は「新部子」と呼ばれ、舞台に登り始めた若衆は「舞台子」と呼ばれました。「陰間(かげま)」または「陰子(かげこ)」は舞台子に至らず、陰に置いておく者の称でした。この陰間は別に「色子」とも呼ばれ、また舞台子でも、まだ一人前の役者になれない者も色子と称していました。その養成所で芸を仕込まれて、本舞台に登る以前に、田舎廻りで芸の修業に行くものを「飛子」と言いました。
 女方にとっては、男に抱かれる、性的関係を持つ、というのは必須の修行であると考えられるようになりました。修行中の女方はむしろ積極的に酒宴の席などに招かれ、客に身を売るということが普通に行われるようになり、客の求めに応じるための性技をも修業させられ、舞台の芸と共に、閨の技法も仕込まれていたのです。

 そのうち「陰間茶屋」というものが生まれてきました。陰間を抱えた料理屋、居酒屋、あるいは傾城屋(売色目的の茶屋)の類のことです。
 最初は芝居小屋と併設され、歌舞伎役者になるために、芸の修業をするかたわら、座敷をも勤めるために男色の道にも励む「舞台子」などが、贔屓の客に招かれて行くのが陰間茶屋でした。しだいに芝居小屋とは分化して、役者の卵ではない、舞台には立つことのない陰間を抱えた茶屋が多くなっていき、時代の進むにつれ、色だけを売る陰間が養成されるようになって行きます。

 陰間茶屋のあった場所として、本郷の湯島天神門前町、日本橋の芳町などが有名でした。湯島は上野寛永寺の所轄の土地であり、土地柄から寛永寺の僧侶たちがなじみの客となっていました。日本橋芳町の方は、最盛期には150人以上の男娼がいたといわれています。こちらは、日本橋に中村座,市村座などの芝居小屋が多かったためでしょう。大坂の陰間茶屋は道頓堀が中心でした。

 陰間として男に色を売る盛りは短く、25歳でもう陰間としての価値は終わりだとされていたようです。「男色実語教」(元禄13年)には、衆道における春は、11歳より14歳までは「蕾める花」であり、15歳から18歳までは「盛りの花」であり、19歳から22歳までは「散る花」だとされています。
 通常、陰間は13、4歳から客を取り始め、20歳前後には男の客の相手をすることは引退します。20歳過ぎの陰間は、もっぱら女性客を相手にするように転向するわけです。陰間は男の客に抱かれるばかりではなく、女の客も相手にしたわけです。

 女の客は、後家と御殿女中が双璧と言われます。
 江戸時代の商家では、旦那が死ぬとそのお内儀が店を継ぐことが多かったようです。また武家では、当主が死ぬと跡取り息子が幼くても、形式上家を継がせました。いずれも、夫に死なれた女性は簡単には再婚できませんでした。女盛りに後家となった奥方は、男妾を囲うか、陰間茶屋通いをすることになります。
 御殿女中とは、大名屋敷に奉公する女性です。彼女らが屋敷から外出できたのは、芝居見物などを口実とした「宿さがり」の時だけでした。外出時間は申の刻(午後4時ごろ)までと決まっていたので、御殿女中の陰間遊びはあわただしいものでした。

 陰間茶屋での遊興は、泊まりは別にして、「一切れ」を単位としていました。「一切れ」とは、線香一本の燃え尽きる時間のことです。線香の太さや長さで燃え尽きるまでの時間は違いますが、約1時間前後ではないかと思われます。
 明和元年(1764)に発行された「菊の園」や同5年(1768)に発行された「三之朝」という男色細見(プレイガイドのようなもの)を見ると、陰間遊びの料金は昼の時間を6つ切り、夜を6つ切りにして、一切りが金一分。仕舞(一日買切り)が金三両。片仕舞(半日買切り)が金一両二分。ほかに小花(チップ)が金一部となっています。金一両は金四分です。
 陰間を外に連れ出して遊ぶ場合には、片仕舞で一両三分から二両。ただし半日単位なのでほんの一刻でも同料金です。
 これは吉原遊郭の高級女郎並で、陰間遊びができるのは、やはりかなり金持ちの武家,商人,僧侶に限られていたようです。

 江戸の陰間は、多くは上方の出身者であったそうです。江戸者ですとどうしても言葉使いや態度が荒々しくなるので、おっとりした上方者が好まれたとのことです。

 陰間として身を立てるには年少の頃から訓練が必要でした。
 「男色十寸鏡」(貞亨4年)に、若衆は匂いのあるものは食べてはならない。焼いた魚や鳥、貝類、汁物などは悪しきものなり、などなど列挙されています。食べ方や、お酌の仕方などうんざりするほど事細かく述べられています。
 また、「女大楽宝開」(安永頃)は、「女大学」の注釈本「女大学宝箱」をもじって色事本に仕立てたものですが、このなかの「若衆仕立様の事」では、15枚の画とともに、陰間の訓練のようすが描かれています。

若衆仕立様の事

一、衆道を仕立つるに、不束(ふつつか)なるはいでを子がいよりかかえとりて、たとえば、みめよき生れ付きにても、すぐさまつきだしにはならず。あるいは顔に色気あり、また眼本風俗卑しからずとも、そのままにてはしようつらず不束なり。これを仕立つるには、幼少より顔手足尋常、きめ美しくすること第一なり。この薬の仕様は、ざくろの皮をなまのあいだに採りて、白水に一夜つけ、明くる日いかきなどにあげ、その日一日かげほしをして、またその夜白水につけ、右の通りにして三日晒し、その跡に随分ほしあげ、細かく紛にして袋にいれ、これにて洗えばきめ美しくして、手足尋常になること妙なり。また歯を磨くには、はっちく(淡竹)の笹の葉を、灰にしてみがくべし。多くは消炭にてみがけどもあしし。また鼻筋の低きは十、十一、十二の時分、毎夜ねしなに檜木の二、三寸くらいなるにてこのごとく摘み板を拵え、右の通りに紐をつけ、鼻に綿をまき、その上を右の板にて挟み、左右の紐を後にて、仮面(めん)きたるごとく結びてねさせば、いかほど低き鼻にても鼻筋通り高くなるなり。ただし、十二の暮より仕立てんと思わば、初め横にねさし、一分のりを口中にてよくとき、彼処へすり、少し雁だけ入れてその夜はしまうなり。また二日めにも雁まで入れ、三日めには半分も入れ、四日めより今五日ほど、毎日三、四度ほんまに入るなり。ただし、この間に仕立つる人きをやるは悪し。右のごとくすれば後門沾(うるお)いてよし。また、はじめより荒けなくすれば、内しょうを荒らし煩うこと多し。また十三、四より上は煩うても口ばかりにて深きことなし。これは若衆も色の道覚ゆるゆえ、わが前ができると後門をしめるゆえ、客の方には快く、また客荒く腰を使えば肛門のふちをすらし、上下のとわたりのすじ切るるものなり。これにはすっぽんの頭を黒焼にして、髪の油にてとき付けてよし。右記せし仕様の品は、たとえ町の子供にても、右の伝にて行なうがよし。また新べこには、仕立てたる日より、毎晩棒薬をさしてやるがよし。この棒薬というは、木の端を二寸五ぶほどにきり、綿をまき、太みを大抵のへのこほどにして、胆礬(たんばん:硫酸鋼)をごまの油にてとき、その棒にぬり、ねしなに腰湯さしてさしこみねな(さ?)せば、煩うこと少なし。ただしねさし様は、たとえは野郎、客に行きて、晩く帰りたる時は、その子供の寝所へ誰にても臥し居て、子ども帰ると、その人はのき、すぐさま人肌のぬくもりの跡へねさすべし。かくのごとくして育つれば無病なり。とかく冷のこもるわざなれば、冬などこたつへあたるは悪し。野郎とても晩く帰るときは、右の通りにしてねさすべし。これだい(一・事?)のことなり。

一、一分のりというは、ふのりをよくたき、きぬのすいのうにてこし、杉原紙に流しほし付け、これを一分なりに切りて、印籠に入れてもつなり。また酒綿とて酒を綿にて浸しもつなり。これはねまにて客の持ち物、あまり太きがあれば、右の酒をわが手にぬり、その手にて向うのへのこをひたものいらえば、自然とできざるものなり。客もあわずにかえる術なり。得あいませぬといえば、客の手前すまざるゆえ、これにて、両方共にたつしほう、それゆえ野郎はねまへ入ると、早速しなだるる体にて客の一物を引き出しいらうなり。ことさら女とちがい、色少なき物ゆえ、ずいぶんとぴったりとゆくがよしとす。

一、若衆の仕様は仰のけにしてするがよし。若衆はいやがるものなり。そのいやがるゆえは、客の案内にて行なうゆえなり。この仕様は初め後より入れ、肛門の湿う時分、一度抜きて、両方共によくふきて、それよりあおのけにして、またつけなおし、いるれば、くっつりとはいるものなり。はじめより仰のけてすれば上へすべり下へすべり、思うようにはいらざるゆえに、ひたもの唾をつけつけ、ひまをいれるゆえ、けつほとびてびりびりとするゆえ、けがすること多し。それゆえ一げんにてはできぬことなり。若衆のねまにも、多くしなありて、ねまへ入る前に裏(厠)へ行くもあり。これ若衆は体の弱きものゆえのことなり。かようの若衆は客の方にその心得すべし。裏へ行きてすぐにさせばよくはいれども沾いなし。また、しばらくまちてすれば肛門よく沾いたる時、初め記せし通りよくはいるものなり。一義しまい跡にて裏へ行くが大法なり。客もしばらくけつにてよくなやし抜くべし、若衆も跡のしまりよし。
(女大楽宝開)

 先ず、女の子のように顔形を器量よくすることから始めます。その第一は顔や手足を色白く、きれいに、きめ細かい肌にかえて美しく育てて行くのです。それには次のような化粧水を作って常日頃使わせます。先ず、ざくろの皮を生の間にはがし、水に一晩つけておきます。このようにして三日間さらしておき、その後はずっと長い間乾し上げ、これを細くくだいて粉にします。この粉を袋に入れ、これで洗えばきめ美しくなり、不思議に手足がきれいになって行きます。
 次に歯をみがくには、はっちく(淡竹)の笹の葉を焼いて灰にし、これをつけてみがかせるようにします。消しずみを使って歯をみがいているのが多いようですが、これはよくありません。
 鼻すじが通らなくて低い鼻のときは、鼻を高くするためにひの木の長さ二三寸の板を二枚用意し、その一端はひもで結びつけて自由に動くようにし、他の端の所にもひもをつけて結べるようにしたはさみ板をこしらえておきます。子供が九歳から十乃至十一歳の年頃になると、毎晩寝るとき鼻に綿を巻き、その上からはさみ板で鼻をはさんで、はさみ板の左右のひもを頭の後ろにまわして、面をつけたようにして結びつけて寝させます。こうして毎晩はさみ寝をさせれば、どんな低い鼻でも鼻すじが通り、高くなって行きます。

 さて、陰間は遊女と同じように結局は売色を職業とするものです。しかし遊女による女色に対して陰間は男色ですから売色の方法が違います。そのために、子供のときから女としてしつけると共に、十一歳の終り頃から十二歳の年頃になると売色の仕方も仕込んでいったのです。

 いちぶのりといって、ふのりをよく煮き込み、絹のみずこしで濾し、こうぞから作ったすぎ原の紙にながし出し、よくほして乾かし、これを一寸位の幅に切ったものがありますが、これを印寵に入れておきます。必要のときこれを取り出して、口の中に入れてよく解き、男の子を横に寝させて後門の穴の所にぬってやり、その晩は少しだけ一物を入れてやり、これでおしまいにします。二日目も同じように少しだけ入れてやり、三日目は半分位入れ、四日日より五日間は毎日三四回全部入れてやります。但しこの間は仕立専門の者が気分を出して気負い込んではよくありません。このようにゆっくり仕立てて行くと後門がうるおってよくなってきます。

 遊女の水揚に村して、男の陰間は水下げといわれていますが「その用心にとく布海苔」という句があります。陰間を仕込んで行く時、木製の一物にふのりを塗りつけて、毎日数回入れならして行く方法もあったようですが、場合によって後門が切れてただれてくるようなことになると、そこに灸をすえてなおすなどして、一通りの仕込を終えるに一ケ月以上を必要としたという伝えもあります。

 このようにして仕立てて行くのですが、初めからひどく乱暴に扱いますと直腸の裏膜をあらして痛がることが多くなります。これが十三、四歳から上の年頃になりますと痛がっても後門の所ばかりで内部に入ることはありません。この理由は、この年頃になってくると男の子も段々と色ごとを覚えてきますので、客とやる時自分の一物が固くなってくると自然に後門の方もしまってくるので、客の方は気持がよくなって荒く腰を使って抜きさし操作を繰返しますと、後門のふちをすってすじを切ることがあるのです。このときはすっぼんの頭を黒焼きにしたものを髪油でとき、これをつけてやるとよく効くとあります。

 また棒薬を使って仕込む方法も書いてあります。先ず仕込み専門の者が男の子に一物を入れ、射精しないようにして毎晩幾日も続けて、ゆるやかに抜きさしができるようにするのですが、抜いた後に、二寸五分位に切った木の棒に綿を巻きつけ、太さを一物位の大きさにして、胆ばん(硫酸鋼)をごま油でといたものをこの棒に塗りつけ、寝しなに腰湯に入れて温めてやった後、この棒を肛門に差し込んで寝させます。あるいは棒薬というのは胆ばんをこよりにひねりこめたものや、山椒の粉をこよりに入れたもので、はじめ胆ばんを肛門に入れてやりますと、硫酸鋼のために直腸の裏膜が偏食して感覚が鈍くなってきます。これに山しょの粉を入れてやりますと直腸の膜が痒くなって、何か入れてなでてもらえば気持ちがよくなるようになってきます。このような腐食鈍感剤と起痒剤とを棒薬というのです。

 さて、陰間が客をとって遅く帰ってくる時などは、その子のねどこに誰かが寝ておき、子供が帰ってきたときその人はねどこから出て、人はだにぬくもった後に直ぐに寝さすようにしてやります。このようにして育てて行けば病気になることはありません。とかく冷えることの多い仕事ですが、冬などこたつを与えるのはよくありません。遅く帰ってくる時など、このように扱ってやる心がけが必要です。
 このようにして容貌や外見の習練を行い、髪や結髪の心得、歌を詠む素養、歩き方、客から酒を汲み貰う姿勢などを仕込まれた陰間は、はじめて化粧し、まゆをかき、歌や踊りの稽古をさせられ、やがて客をとることになります。

「若道の床入りといつは、床にいり給ひて、男の気をすゑさせ、平世になるまでは、たがひに真向にふして、わざとならぬはなし有べし。其咄も何がなと、ことうきたるような、木に竹つぎたるごとくの、そぐはぬ咄はつたなし。男おほかたくせものなれば、此はなししかけたまふうちに、心おちつくなり。其うちに、まくらもとに香などくゆらし給ふべし。わすれがたきやさしさなんめり。やうやくしめやかになりたるとき、そとみづからの帯をとき給ふべし。我つまを男にうちかけ、夜物などおおい給ふべし。其とき男もようよう帯をときぬべし。男気ざしたるていにみえば、かくありて後肌をあはせて、水もらざしと、ひたひたといだき給へば、何ほどよはき男も、これにいさめられて、だきしめる也。此ときしつほりとかかって、口すはせ給ふべし。思ひにしづんだ男、今のうれしき心のうち、たとへていはんかたなかるべし。此とき、やぼ成若衆は、とやかくとして、男の道具をにぎりてみたがる也。是ぎやうさんひけたる事なり。弓削道鏡はしらず、何程おほきなるとて、大かたしれたるもの也。若衆のうけやうにて、大分いれさせぬしかけも有事也。夢々いらひ給ふべからず。さて、男のきざしあらはるれば、よきじぶんに、いつとなくうしろむき給ふべし。我足のしたへなりたるあしくびを、男のかたえふみながし、上に成たる方を前へふみいだし給ふべし。かやうにあれば、男いれよくして、若衆のためもよし。おほかた入たる此、あしくびを一所にそろへ、ふみながし給べし。このしかけにては、後台谷ふかくなりて、男のだうくをはさむ心あれば、あまり深いりせずして、しかも感精をもよほし侍る也。是若道の極秘、敦盛の一枚起請にみえたり。此門に入たまはば、先此通路をひらき給ふべし。夫、菊座のひだは、四十二重なりと、むかしよりいひつたへたり。とをりかねるは、其皮こはくしまりたるゆへに、いるるにきのどくなり。さいさいあついゆにてあらひやはらげて、ねり木の汁をぬり、又は、蜜をぬりてとをし侍れば、やはらぐなり。いらんとするとき、うちよりはりかけ、すこしひらくやうに気をはり給ふべし。やすらかにとをる也」(男色十寸鏡)

    

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