女 方

 「女形」、「女方」と、両方書きますが両方とも誤りではないようです。歴史的には、「男方」と対になる「女方」の方が古く、女性を模倣する演技者としての職能意識が強まった延宝以降「女形」とも記すようになりました。女形と書いて「おやま」と読むのは立女形とか若女形とか前に形容する詞が付いた時に限られ、単に女形と書く時は「おんながた」と呼ぶのが正しい様です。この「おやま」は、承応年間に江戸の人形遣い「おやま次郎三郎」という人が。女形の人形を巧みに使いこなした名手であった所から、人形遣いの苗字の「おやま」からこの名前が伝えられるようになったということのようです。
 肩書きに「男方」「女方」と区別をつけたのは、京阪の地から起こっていますが、その女方の始めは糸縷(いとより)権三郎という役者であったといいます。また、江戸では、京都の村山左近という役者が、境町の村山座の舞台へ現れたのが始めとされ、練絹の衣装を着けて、頭には染色の手拭いようの長い物を冠り、造花に短冊のついた枝を持って踊ったと書かれています。

 初期歌舞伎は、男装のかぶき者と男性芸人が女装して演ずる遊女とによる「茶屋あそびのまなび」が中心でした。

「さてもふしきのよのなかにて、おんなはおとこのまなひをし、おとこはおんなのまねをしてちやのかかにみをなして、はつかしかほにうちそはめものあんししたるていさてもさてもとおもはておもしろしともなかなかに、こころこともなかりけり」(かぶき草子)

 というように、現実の性と舞台の性を完全に逆転させての濃厚な性愛的内容でした。その後、女性が舞台に上がることを禁じられた結果、男が女を演ずるという事実そのものには変わりはなかったのですが、性愛的表現の対象となる女によって演じられていた男は、男が演ずる男となり、男に対して男が自己を異性化するという世界を創らなければならなくなったのです。

 元禄前後の女方役者は、舞台の上の起居振舞はもとより平素の生活にも女性の行いを学んで、すべてを女に成りきることに心がけました。岩井左源太、早川初瀬、澤村小伝次は女方の三幅対と呼ばれ、更に後になっては、水木辰之助、芳澤あやめ、荻原澤之丞、袖崎歌流などが女方の四天王と呼ばれて女方の完成期が訪れました。

 芳澤あやめ(1673〜1729)は、道頓堀の色子の出身で、元禄期の若女方の芸の基礎を築いた名優です。男である自分を自覚して、男が舞台に女を表現することこそ女方の務めであると考えました。
「あやめ草」に、女方の芸事の秘事口伝を伝えています。

「女形はけいせいさへよくすれば、外の事は皆致しやすし。其のわけはもとが男なる故。きつとしたることは生まれ付いて持てゐるなり。男の身にて傾情(けいせい)のあどめもなく、ぼんじゃりとしたる事は、よくよくの心がけなくてはならず。さればけいせいにての稽古を、第一にせらるべしとぞ」(あやめ草)

 傾城は、日常的ないっさいの生活臭を感じさせない、風流で、鷹揚で、様良き非現実的な、男の目が作り上げた女の理想像です。つまり、男心をそそるように、作為的に作り上げられた女です。

 あやめは、女方は男であるという自覚のうえで、男が女になるための目標を、日常を超越した傾城の「あどめもなく、ぼんじゃりとしたる」在り方としたのです。

「女方は色がもとなり、元より生れ付てうつくしき女形にても、取廻しをりつはにせんとすれば色がさむべし又心を付て品やかにせんとせばいやみつくべし。それゆへ平生ををなごにてくらさねば、上手の女形とはいはれがたし。ぶたいへ出て爰(ここ)はをなごのかなめの所と思ふ心がつくほど男になる物なり。常が大事と在るよし、さいさい申されしなり」(あやめ草)

 性転換では、男であることを拒否した一人の女の肉体を作るのみで、それだけで女を成り立たせることはできません。女方は、平生を女の心で暮すこと、女の情を知り、それを体得して、自分の心を女の心に同化させることです。ここが要というところで意識しなければ女の情が表せないようでは、「上手の女形とはいはれがたし」なのです。

◇ 役 柄

<花車方>
 ベテラン女方の務める役で、初期の歌舞伎の廓通いの演出から発展した役。恋の仲立ちやもめごとをうまく解決する役柄。芝居の重要な部分を担う。
 『菅原』の覚寿、『盛綱陣屋』の微妙(みみょう)、『ひらかな盛衰記』の延寿など。この三人を「三婆」と呼ぶ難しい役。

<娘方>
 
いわゆる若い女性の役。

赤姫(あかひめ)
 武家のお姫さま。お姫様は華やかな赤い振袖を着るためこう呼ばれる。また恋焦がれる情熱的な内面も表す。
 緋綸子の振袖、打掛も縫い取りの赤、吹き輪という鬘に銀の花櫛。
 『本朝二十四孝』の八重垣姫、『鎌倉三代記』の時姫、『祇園祭礼信仰記』の雪姫は三姫と呼ばれる。『桜姫東文章』の桜姫は赤姫だが、後に風鈴お姫というあばずれ女となる。

町娘
 商家の娘。黄八丈に黒襟なども町娘の拵えのひとつ。
 『髪結新三』のお熊など。

田舎娘
 都会の若衆に恋する田舎の純朴な娘。
 浅葱色や納戸色などの中振袖。
 『妹背山』のお三輪、『千本桜』のお里、『野崎村』お光、『神霊矢口渡』お舟など。

<傾城>(けいせい)
 吉原など遊郭の女たち。太夫など位の高い遊女のことを指す。
 江戸時代の傾城は洗練され教育も受けたハイレベルな女であるため、色気、品位が必要となる。
伊達兵庫(立て兵庫)とよばれる鬘に櫛笄を何本も差し、豪華な打掛に俎板帯(まないたおび)をつける。花道などで花魁道中を見せることもあり、三枚歯の木履で八文字を描くような歩き方が特徴。
 『助六』の揚巻、『籠釣瓶花街酔醒』の八ツ橋、『曾我の対面』の大磯の虎など。

<女房役>
 武家や商家の女房。

片はずし
 武家の奥方や局、武家に仕える奥女中や乳人。立役に匹敵する立女方(たておやま)の役どころ。鬘は片はずしというもので、堅実で誠実な、辛抱立役にも似た分別わきまえた大人の女性。『先代萩』政岡、『鏡山旧錦絵』の尾上など。

世話物の女房
 貞淑な武家の女房で、夫や親に誠を尽くす。石持(こくもち)という衣裳が特徴。世話物では丸髷に小紋などの商家の女房役が多い。納戸、栗梅などの無地の着物に黒襟、丸帯という地味めの衣裳。
 『菅原』の戸浪、『傾城反魂香』のおとく、『心中天網島』おさんなど。

<悪婆(あくば)>
 といっても年寄りではない。男を破壊させるような独特の魅力をもった女性。
 いわゆる毒婦。ゆすりたかりなお手の物で殺しまでやるときも。主家のためではなく、好きな男のためというかわいいところもある。伝法でちょっとべらんめえ、男と対等に渡り歩くたくましい女でもある。
 ポニーテールにも似た馬の尻尾という鬘に茶、藍の弁慶格子の着物、半纏などひっかけていたらこの役。
 『お染の七役』土手のお六、『切られお富』など。

<女武道>
 女性で武道を得意とする男まさりの役。男なみに力のある、動きの激しい役。
 『彦山権現誓助剣』のおその、『和田合戦女舞鶴』の板額、『鏡山』のお初など。

◆初期の女方

 西鶴の「男色大鑑」に名のみえる初期の女方です。

荒木与次兵衛

初代。荒木系祖。寛永14(1637)年生れ。父は大阪道化方の祖といわれる斎藤与五郎(ふんとく与五郎)という。花車方(かしゃがた老女役)で名作者の福井弥五左衛門に師事し、寛文4(1664)年に「非人敵討(ひにんかたきうち)」を演じて名声を得た。初代嵐三右衛門・藤田小平次とともに、延宝期の上方劇壇の重鎮となった。大阪堀江芝居の座元を勤め、立役としては武道・実事(じつごと)の妙手であった。元禄13(1700)年12月没。64歳。

嵐門三郎

初代嵐三右衛門の子。初名勘太郎。延宝末から女方として舞台に立ったが、天和にはいると父三右衛門が座元である道頓堀嵐座の若衆方となった。元禄3年11月、父の死とともに二代目三右衛門となり、立役と座元を兼ねた。元禄14(1701)年11月7日没。41歳。

市川かをる

貞享3(1686)年、京都大和大路芝居に若女方として登場。京都万太夫座の若女方として評判の美貌で売り出した色若衆。生没未詳。

「女がたの美しきは下におかれぬ物、此君の美しさ、漠の李夫人そとをり姫も袖をおおふてにげたまふべし」(野郎立役舞台大鏡)
「前廉京にふと出られしより、いちはやく太夫となりて日々に繁昌し給ふ事、もとあいきやうよき生れつきゆへ成べし」(野郎関相撲)

伊藤小太夫

二代目。万治年間に二代目を襲名した京都の女方で、小大夫鹿子の創始者。寛文元(1661)年、上方から江戸に下り、古日向大夫座に属した。寛文末年にはまた上方に帰り、当時の名女方の上村吉弥(大吉弥)と並称され、お山小太夫と呼ばれた。濡・愁嘆をよくし、傾城役を得意とした。延宝6年春、京都北側芝居で、「吉野身受」の吉野太夫を演じ、半年余りの大入りをとった。元禄初年没という。

岩井歌之介

承応以前の若衆歌舞伎時代の女方。塩屋九郎右衛門座で美貌をもって鳴る。生没未詳。

上村吉弥(大吉弥)

初代。寛文・延宝期(1661〜81)を盛時とする上方の名女方。俗に大吉弥といい、吉弥結び(女帯)の創始者。もと大阪の道化方斎藤与五郎の抱えで、京都四条中の島芝居で売り出した。延宝8年刊の『役者八景』に女方として記載、天性の美貌で、舞所作に優れていた。天和元(1681)役者をやめて上文字屋吉左衛門と名を改め京都四条通りで白粉屋を開業した。享保9(1724)年6月没。

「上村吉弥は平転を自由になせり。平は面体手足、力身なくやわらかに舞ふ。転は安らかなる所に悦として気を転ずる也。吉弥是をよく考へ、安らかにすらりと舞ふ中に、早く気をかへ心をあらため、行雲の夙にひらめき、秋の菓の日にかがやくがごとく所作をなせり」(舞曲扇林)

上村吉弥(二代目)

初代荒木与次兵衛の門弟で上村辰弥の兄。天和初年(1681)年頃二代目を襲名。貞享年間には若女方として、二代目伊藤小太夫につぐ位置をしめ、上村今吉弥として大阪嵐座・鈴木座の若女方、京都村山座の立女方を勤めた。踊りや愁嘆事、怨霊事を得意とした。

「一、しうたんのせりふ上手にて人を泣かす事えもの。一、舞ぶり扇の手上手にてとりまはしりかうなり。一、怨霊となつて、地赤にうろこがたの箔装束きてかるわざのはたらき、随縁ふしぎの妙をえ給ふ……。一、人の奥様となつて、りんきに身をもやし、腹たつるふぜい、よくうつりて上手」(野郎立役舞台大鏡)

上村辰弥

天和・貞享期の大阪の若女方。二代目上村吉弥の弟。初名は上村辰之助。嵐座の若女方として評判。元禄4(1691)年頃自殺

「面体うつくしく、見かけからりはつのあまる芸ぶりなり。……一、舞上手にて扇こうしや也。手ばしかなる舞ぶり、姉のお吉(上村吉弥)に似たる所あり」(野郎立役舞台大鏡)
「今年給金百三十両、二十歳、居宅三津寺筋真斎橋東へ半丁北側」(難波立開音語)

右近源左衛門

若衆歌舞伎時代から初期の野郎歌舞伎時代にかけての上方の名女方。一説に元和8(1622)年生れ。振付師の始祖といわれる、歌舞伎伝助(日本伝助)の門弟。承応元(1652)年江戸に下り、「海道下り」や「山崎通い」などの道行を舞って好評を博した。万治・寛文頃は老女役を演じている。俗に女方の祖といわれ、前髪を剃らされた野郎歌舞伎時代の初期、鬘があらわれるまで、彼独得の置手拭を考案して月代をかくし、鬘が登場するまでの女方芸を守った(昔々物語)。

岡田左馬之助

貞享・元禄期の上方の若女方。貞享元(1684)年、大阪荒木与次兵衛座の立女方となり、同三年には京都岡村座の若女方となり評判をとる。元禄9(1696)年、江戸山村座に下る。生没未詳。

「ぼつとりとしたるむまれ付なるゆへ、諸人ともにすきけるなり。……
一、長刀つかふ事名人。一、舞ぶり扇の手上手也。一、ぬれのせりふしっぽりとして、上村よりましじやと都にてのとりざた」(野郎立役舞台大鏡)。

小桜千之助

初代。初代上村吉弥の門弟。京都村山座の開祖村山又兵衛の養子または縁者という。延宝・天和・貞享期の若女方の名手。大阪荒木与次兵衛座の若女方として評判。
「女のぬれに三国一、またと類なし」(野郎立役舞台大鏡)
二代目は貞享四(1687)年に、大阪荒木座の若衆方小桜小太夫が、京都の村山座で襲名している。同時に千之助は立役となって村山九郎右衛門と名乗り、さらに元禄五(1692)年には、村山平右衛門と改名している。生没未詳。

袖岡今政之助

今政之助とは、今の二代目政之助の意。初代は延宝・天和を盛りとした若女方。俳書『道頓堀花みち』(延宝七年刊)に、袖岡由衣の名で入集している。元禄七(1694)年十二月三日没。四十四歳。
二代は寛文六年生れで、初代の実子、または養子という。若女方で、貞享三(1686)年に大阪で二代目を襲名した。大阪荒木座の若女方、袖岡今政之助として評判をとった。元禄四年、江戸に下り、若女方として活躍した。正徳元(1711)年花車方(老女役)として舞台に立ち、江戸花車方の随一と称された。享保九(1724)年没。濡と愁嘆にすぐれ、花車方としては老母役を得意とした。

袖島市弥

上方役者。天和・貞享期の若女方。天和初年、大阪の大和屋甚兵衛座に若女方として登場。
同三(1683)年冬、同じく大和屋座で太夫号を得、大和屋座の若女方として評判、文弥節の浄瑠璃・小唄を得意とした。貞享四(1687)年に江戸に下り、江戸中村勘三郎座の役者四天王の一人にあげられている。生没未詳。

滝井山三郎

寛文初年、京都で若女方として舞台をふみ、寛文三(1663)年には江戸に下って評判をとり、同五年十月には、市村座の「梅が妻」で大当りをとってまもなく、十二月には京都へ引き上げた。寛文七年、再び江戸へ下って中村勘三郎(二代目)座に属したが、当年より町奉行となった島田出雲守に寵されたので、山三郎は江戸四座のほかに一座を立てる事を願ったが成就しなかった。同年八月勘三郎が急死したので、その死は山三郎がその跡に代わらんための毒殺であったと『久夢日記』が伝えている。延宝三、四年頃に没。

「此君人にこへ、おすがた心ばせ又有べきともおもはれず。ぬれ狂言のしなせぶり、うたふ小歌のひとふし、かりやうびんがともいふべし」(新野郎花垣)

竹中吉三郎

延宝・元禄期の上方役者。仕方舞の名手の戎屋吉郎兵衛の子。延宝期は竹中初之丞といい、京都戎屋の舞太夫であったが、天和・貞享期は若女方竹中吉三郎となり、京都岩本権三郎座に属して、藤田吉三郎と並称された。女方として京都一番の高給取り、といわれた。元禄元(1688)年九月から、立役竹中藤三郎となって大阪に下り、大阪荒木座の立役として評判。生没未詳。

「一、舞ぶり扇の手上手なり。それはどうり、ゑびすやの吉郎兵衛といふ名人の親仁めが、存生の内によく仕入たもの。一、せりふもの言ひもそそらず、打ついてよし」(野郎立役舞台大鏡)

玉井浅之丞

寛文・延宝期(1661〜81)の江戸の玉川主膳座に属した若女方。玉川主膳とならんで評判、すぐれて美貌であった。

「をうなかとみれば玉井の浅之丞今やうきひの花の面影」(垣下徒然草)。

玉川主膳

野郎歌舞伎の初期、万治・寛文期(1658〜73)の女方。寛文元(1661)年、京都から江戸に下り、新伝内座で若女方を勤め、扇舞・道行舞をよくしたが、「よわひふけ過ておもはしからず。たけたかくは反りてあしし。小うたわたりなみ也」とあり、すでに二十歳を過ぎていたらしい。同二年、玉川主膳座をおこして座元となり、翌三年には、市村竹之丞と相座元を勤めた。延宝初年、出家して可見と号し、法名を頼信といった

玉川千之丞

若衆歌舞伎末期から野郎歌舞伎初期(1650〜60)にかけて活躍した若女方。万治三年刊の『野郎虫』の京都村山座、玉川千之丞の評判に、「面体芸いづくを、難ずべきやうなし。……されども年の齢二十日ばかりの月を見る如くなれば、野郎の齢も今少しにて、一入(ひとしほ)惜しく思はる」とある。まだ歌舞本位の時代の舞の名手である。
寛文元(1661)年江戸に下り、堺町の中村勘三郎座で、「河内通」の狂言で名声を博した。寛文五年、上方に帰ったが、翌六年にはまた江戸市村座に出演している。まもなく上方に帰り、寛文十年また江戸に下って中村座に出勤、翌十一年五月十四日、三十五、六歳で没した。

「千之丞は虚曲の二つを得たり。虚は何心なくかろくして陽也。体ゆるやかに舞なせり。曲は風流なり。千之丞曲をつくるに、姿見の鏡を立てて我とその品を鏡に写し、人のみるさま心の移るやうを考て、女性の姿をよく分別せしゆへに、見物の心をときめかしける。是虚曲の二つを分別せしゆへ也」(舞曲扇林)

玉村吉弥

万治・寛文期(1658〜73)に活躍した若女方。
はじめ、京都の夷屋吉郎兵衛座に属し、玄宗皇帝花軍の狂言で楊貴妃に扮して当りをとった(野郎虫)。寛文元年、江戸に下って、いにしえ座に属し、若女方として売り出したが、延宝初年には姿を消している。生没未詳。

「いにしへ座玉村吉弥。いふばかりなくあでやかにして、此世の人ともおもほへず。……かかる人後の世にもいできなんや。芸の思ひいれ上手なり」(剥野老)

出来島小曝

寛文・延宝期の江戸役者。初代。伝説に女歌舞伎の頭目の一人の出来島長門守の門人という。寛文初年、若衆方として登場。のち若女方に転じ、美貌と舞所作・小唄で人気を博したが、背丈が延び過ぎて、延宝玉(完七七)年頃には姿を消している。

「此君又たぐひなき白ぼたんとやいはん、きりやうずい一にして、こゑあざやかなり。……ただしたくましくのび過たるほいやか」(新野郎花垣)

外山千之助

貞享・元禄期の女方。はじめ京都で滝井沢之丞の芸名で若女方を勤め、まもなく外山千之助と改名し、貞享四(1687)年か元禄元(1688)年江戸に下った。生没未詳。

「外山千之助住所ふきや町小見せ物うら。此君京四条の下り、今市村の座に出給ひ、女方をまなび給ふ。面体うつくしく、ぽつとりとしてやさしく見ゆる。諸芸たをやかに露こばれかかれる御よそほひ、誠に京女郎の風俗なり」(野郎役者風流鑑)

浪江小勘

はじめ京都宮川町山里文左衛門の抱え子で、陰子名を滝井浪江といったが、ある客に引かされて大阪に下ったのを、また母親が難題を吹っかけて取り戻し、再び陰子小島梅之助となった。延宝八年、道頓堀初舞台の際、浪江小勘と改め、天和元(1681)年、嵐座の若女方となり、嵐三右衛門の相手役として好評を博した。元禄初年には引退もしくは病死。

「今年給金七十五両、二十八歳、居宅畳屋町東側、南より一丁目、柿無地のうれん」(難波立聞音語)
「此君ゆかりあつてなみ江小勘の名跡をつぎたまふにや。むかしの小かん大坂にて名を発したまふこと、たれしらぬものなし。中にも小野の小町になり、死んだあらし三右衛門を四位の少将にして大内のぬれ狂言おもひ出せば心ゆかし」(役者大鑑)

野川吉十郎

寛文・延宝期(1661〜81)の若女方。はじめ京都で上村吉十郎と称し、音曲と六方をよくした。事情あって野川吉十郎と名を改め、寛文六年頃江戸に下り、中村勘三郎座に属した。

藤田鶴松

天和・貞享期の大阪の若女方。天和二(1682)年十月、大和屋甚兵衛座の若女方として登場。色若衆のまま終わったらしい。

藤田皆之丞

延宝・天和・貞享期の京都の若女方。初代嵐三右衛門と並称された名立役、初代藤田小平次の養子。延宝二(1674)年京都夷屋吉郎兵衛座で十八歳の若女方として評判。下って貞享四(1687)年京都岩本座の若女方として評判。その後姿を消している。

藤村半太夫

万治年間(1658〜61)、京都長右衛門抱えで、村山又兵衛座の立女方として売り出し、その頃元服して輪鼓と称した。延宝三(1675)年頃、江戸に下り、森田座に出勤したが、すでに衰えていた。美貌で舞をよくした。

松島半弥

初代。延宝・貞享期(1673〜88)の大阪の若女方。延宝末年には道頓堀で松島半弥座の座元を勤めたが、貞享三(1686)年中に二十歳で元服し、七左衛門と改名して、畳屋町で井筒星という扇屋を開業した。同年刊の『難波立開音語』荒木座の条に、松島半弥、小歌喜兵衛抱え。給金三十両、二十歳、宅畳屋町、とある。

三枝歌仙

天和・貞享・元禄初年の上方の若女方。大阪荒木座の若女方として評判。元禄元(1688)年、京都の万太夫座の狂言に、若女方として出演している。

「諸芸こうしやなる所多し。腰元子娘になり、それそれのぬれ事すぐれたるとはいはれねども、大方にあぢつくさるる也」(野郎立役舞台大鏡)

村山左近

若衆歌舞伎時代(寛永〜承応)の女方。堺の出身で、京芝居の祖村山又八の五男、江戸村山座の座元の村山又三郎の実弟。寛永十七(1640)年、一説に同十九年、江戸村山座に下り、染手拭をかぶり、はじめて女装して舞台を勤めたのが、江戸における女方のはじまりと伝えられている。右近源左衛門とともに、女方舞踊の代表的存在である。

吉川多門

延宝末年より道頓堀に若女方として登場。荒木座の若女方として評判。貞享元(1684)年の荒木座の役者給金付に、同じ若女方の浪江小勘の九十両に対し、歌二十両分を加えて、百十両とある。貞享三年十一月の顔見世狂言から、京都岡村座の若女方となった。のち花車方に転じ、元禄末年に消息を絶っている。

「一、かれうびんなる御小歌、あれでも世界に人だねはあるか。一、諸芸こうしやにして打ついたる所あれば、大名高家のおくさま方に用てよし」(野郎立役舞台大鏡)

(参考資料)
 今尾哲也「役者論語(やくしやはなし)評注」
 井原西鶴「男色大鑑」

    

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