歌舞伎

  徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長8年(1603年)5月6日に新上東門院(後陽成天皇の母)の御所で、阿国が「かぶきおどり」を踊りました。

 このときの踊りは出雲大社の巫女と称した彼女が、出雲大社本殿修復のための勧進として京の北野神社境内や五条河原で踊っていたものでした。念仏踊りの一種と言いわれますが宗教性は乏しく、伴奏楽器に笛・大鼓・小鼓・太鼓を用いて能舞台で演じるなど能の様式を踏襲した雑芸で、歌舞的要素の強いものでした。
 『当代記』は「異風なる男のまねをして、刀脇差殊異相、彼の男茶屋の女と戯る体、有難くしたり」と記しており、彼女はキリシタンの風俗を取り入れ、ズボンのようなものを穿いて首に十字架を下げ、刀を腰に差し、男装をして「かぶき者の茶屋通い」を演じました。

 阿国のこの踊りが歌舞伎の始まりとされているのはご存知の通りですが、「ややこおどり」に巫女舞などを交えたものをアレンジし、風俗的な流行唄を取り入れた即興的な歌舞でした。
 阿国の歌舞は「かぶきおどり」や「阿国かぶき」などと呼ばれました。「かぶき」は、尋常でないもの、つまりは流行の先端を行くような異様な姿を表現する動詞を名詞のように用いて、当初は仮名で「かぶき」と書き、漢字で表記する場合は「傾奇(かぶき)」と書いていました。それを朱子学者の林羅山(1583〜1657)が「歌舞妓」(芸妓の「妓」)と当て字したといい、江戸期を通じてこれが用いられたのです。今日のような、文字通りの歌(音楽)と舞(舞踊)と伎(伎芸)を意味する「歌舞伎」と表記されるようになったのは明治になってからのことです。

  この「異風異装」の「阿国かぶき」はたちまち評判となりましたが、このころの阿国は30歳を過ぎていたと思われ、当時としては女の盛りを過ぎていましたから、同じころ北野神社の境内で能を演じていた遊女浮舟にパトロンを奪われ、「遊女歌舞伎」の人気に押されて京を離れることになってしまいます。慶長12年(1607年)には江戸に現れて城中で勧進歌舞伎を演じ、慶長17年(1612年)に再び京に登場して、希代の色男だった名古屋山三が幽霊になって登場する「新しきかぶき」を演じますが人気の挽回はならず、既に40歳をも越えていたと推定される阿国のその後の足取りを伝える資料は残っていません。

遊女歌舞伎

 「阿国かぶき」が評判を呼ぶと、六条三筋町の遊郭の楼主たちは阿国一座の人気にあやかろうと遊女に男装させ、伴奏楽器に伝来して間のない三味線を用い、五条の河原に替わって新しい遊興地となった四条河原で贅を凝らした艶やかな「かぶき」を演じさせました。
 阿国一座の「かぶき」は数人で演じられたと思われますが、「遊女歌舞伎」では、『慶長見聞集』によれば「形たぐひなふとやさしきかほばせ、あひあひしく、こものこびをなし、花の色衣をひきかさね」て二三十人が群舞したといい、『孝亮宿禰日次記』は「向四条女歌舞妓令見物、数万人群衆、驚目者也」と記しています。「数万人」は大勢を表す慣用的な表現としても、その人気が異常なほどであったことが窺えます。

 遊女が白粉の匂いをさせてかぶき踊りを演じていたころ、同じ四条河原で少年たちに女装させた「若衆歌舞伎」も行われていました。
 古来より東大寺、法隆寺、園城寺、興福寺など近畿を中心とした寺院や貴族の間で法会や節会の後の遊宴で猿楽、白拍子、舞楽、風流(ふりゅう)、今様、朗詠などの古代から中世にかけて行われていた各種雑多な芸能が「延年」という名で括られて演じられていました。この延年は、稚児(ちご)が出るのが特色で、少年が芸能を演じることは珍しいことではありませんでした。しかも延年(鎌倉時代には「乱遊」とも呼ばれた)の児舞(ちごまい)を舞った少年が僧侶と同衾することも行われていたといい、女性の芸と同様に少年による芸も、女色・男色の売色を伴って中世から引き続いて行われていたのです。

  寛永6年(1629年)の「女芸の禁」によって伴奏を担当する地方(ぢかた)を含むいっさいの女性が舞台に上がることが禁じられ、これ以降、明治24年(1891年)に新派が「男女合同改良演劇」を行うまでの260年余の間、公認の舞台からは女性の姿が消えることになりました。とは言っても女芸が絶えたわけではなく、あくまで公には禁止されたということに過ぎません。
 遊郭を公許として遊女を囲い込み、女芸を禁じたことで、楼主が座元になった「遊女歌舞伎」は姿を消しましたが、化粧をして女と見紛うばかりに艶やかとなった若衆たちの間に女が混じる「男女打交り狂言」が行われるようになり、客の求めに応じて若衆が、或は遊女が酒席に侍り、枕を共にしたのです。寛永17年(1640)になっても幕府から「先年申渡候、男女打交り狂言尽し停止候処、又々相始候趣相聞、不埒に付き、以後は厳重に申付候旨触渡さる」(伊原敏郎著『歌舞伎年表』)との触書が出されています。たぶん、実際には、幕府がたびたび触書を出さなければならないほど女芸は行われていたのでしょう。お上が発した一つの禁令で消えてしまうほど、庶民の芸能(或は文化)はひ弱ではありませんでした。

 当初の歌舞伎は芸能であると同時に、今日言うところの風俗産業でもあったのであり、江戸期を通じて歌舞伎と遊郭は二大娯楽であり続けました。

 風俗産業といえば、明暦3年(1657年)に湯女風呂が禁止されています。
 既に見たように、これに先立って遊女歌舞伎や若衆歌舞伎の禁令が出されていて、幕府は一連の性風俗の取り締まりを行っているかに見えますが、元和3年(1617年)には元吉原遊廓(現在の地下鉄人形町駅あたり)が公許されていて、規制の見返りに遊郭の楼主に特権が与えられ、幕府は禁止するのではなくて管理支配することを目的としていることがわかります。公許遊郭を設けることで「隠し売女(かくしばいじょ)」を名目的には禁止しましたが、実情は野放しと言ってよく、江戸深川、京都祇園、大坂島之内などの私娼街が江戸期を通じて拡大したのも、ご存知の通りです。

 歌舞伎は「たかき御身、老翁、墨染の身」、つまりは公家・武士・僧侶などにも受容されていた芸能文化でした。当初吉原で認めていた遊女歌舞伎を禁止し、また若衆歌舞伎をも禁止したのは、 広範な階層の人たちの間に浸透していた歌舞伎が関わる場(空間)は、遊郭や湯女風呂と同様に、管理されるべき悪所だったからです。

若衆歌舞伎

 女芸の禁令を繰り返していた幕府は、三代将軍家光の死去で本格的に「悪所」の統制に乗り出します。遊女を公許遊郭に閉じ込めて後に遊女歌舞伎を禁止して廓文化を統御し、若衆歌舞伎を禁止して、武士が衆道(男色)に関して「不穏な輩」と交わる機会を消そうとしました。
 たとえどのように規制されようと加えられた圧力を生命力に転化して強かに生き延びようとするのが民衆の文化です。若衆歌舞伎が禁止された翌年の承応2年(1653年)には、「前髪を剃ること」と「歌舞を控えて物真似狂言尽くしとすること」を条件に歌舞伎は「再御免」となっています。

 1657年(明暦3年)に幕府の膝元を焼け野原にする明暦の大火(俗にいう「振袖火事」)が起こり、一説には死者10万人余という空前の被害を出して江戸は灰燼に帰しました。しかし、これを機会に江戸の大改造が行われ、治安の維持に配慮した町づくりがなされて、徳川幕府の下で、世情も安定を見せるようになりました。民間芸能にも変化は避けられないものとなり、「悪所」の歌舞伎は演劇的に成長することでその悩ましく艶やか魅力を留めながら生き残ろうとしました。1624年に猿若座(中村座)、1642年に山村座、1660年に森田座、1671年に村山座が開場して延宝年間(1673〜1681)には公許四座が確立し、堺町・葺屋町・木挽町が芝居町に指定されて規制と特権の中で「野郎歌舞伎」は「物真似狂言尽くし」への転換を見せつつ元禄期を迎えていったのです。

  江戸が明暦の大火からの復興を急いでいたころ、上方の歌舞伎の規制は江戸ほどではありませんでした。既に公家や朝廷に対する統制が完了していて、幕府は世情への警戒を強める必要がなかったからではないかと見られていますが、依然若衆歌舞伎が演じられていたばかりか「男女打交り狂言」も行われていました。ところが、理由は定かではありませんが(江戸の規制に倣った?)、寛文元年(1661年)に一切の歌舞伎が禁止され、同9年までは演じることができなくなりました。
 野郎歌舞伎となって再開されると「傾城買狂言」とか「島原狂言」と呼ばれている、島原遊郭(西新屋敷 1641年に六条三筋町より移転)に傾城(遊女)を買いに行く、郭案内のような話が演じられました。内容は、名前を若衆から野郎に変えただけの、相変わらず若男の容色を売り物にした衆道(男色)狂言でしたが、それも年号が寛文から延宝へと変わるころになると変化が見られるようになり、容色だけの若男よりも女方が人気を得るように、つまりは女よりも女らしく演じる芸が評価されるようになっていきました。
 そして延宝6年(1678年)2月に坂田藤十郎(1647〜1709)が『夕霧名残正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)』という、この年の正月に病没した大阪新町の遊女夕霧を悼む狂言で藤屋伊左衛門役を演じて「和事(わごと)」の基礎を作り、上方の歌舞伎も元禄期の賑わいを迎えていったのです。

    

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