稚児日本には、古来から神霊は幼い子供の姿を借りて現れる、という信仰がありました。神が降りるための仮の肉体を、「尸童(よりまし)」または「依憑(よりわら)」と呼びます。日本の男色の風習の背後には、この「少年は神霊の化身」という信仰があります。稚児を神仏の顕現と見なし稚児との肉体的交わり自体を神聖視する宗教的側面もあったのです。 奈良時代、貴族の子弟が幼少のうちに寺院に入り、僧の身の回りの世話などをし日常生活の手助けをする、また歌舞音曲の伝授を受けることが制度化されていました。寺院は女人禁制ですので、男児を使ったわけです。さらに時代が下ると、貴族に限らず俗人の男児が寺院に預けられ、成人まで学問修行をしながら僧の供侍をすることが一般に行われるようになりました。いわゆる小坊主とは違います。これら有髪の少年達を、寺稚児、垂髪、渇食(かっしき)などと呼びます。 頭を丸めた殺風景な僧侶達のなかにあって、有髪の少年達は特別な存在であったようです。この僧と稚児の間に、同性愛的な恋愛感情が生まれる場合もありました。 また、古来より東大寺、法隆寺、園城寺、興福寺など近畿を中心とした寺院や貴族の間で法会や節会の後の遊宴で猿楽、白拍子、舞楽、風流(ふりゅう)、今様、朗詠などの古代から中世にかけて行われていた各種雑多な芸能が「延年」という名で括られて演じられていて、この「延年には稚児(ちご)が出るのが特色」でした。しかも延年(鎌倉時代には「乱遊」とも呼ばれた)の稚児舞(ちごまい)を舞った少年が僧侶と同衾することが行われていました。 鎌倉時代から室町時代にかけては、この僧侶と稚児,または公家と稚児の間の交情を描いた、一種の恋愛小説が流行しました。これを「児物語(ちごものがたり)」と呼びます。普通、宗教は恋愛には抑圧的であるものですが、中世の稚児物語はほぼ例外なく稚児と僧との恋愛に関して寛容でした。中でも最高傑作と呼ばれるのが「秋夜長物語」(作者不明)です。
稚児は、観世音菩薩の変化身としての「稚児」であって、稚児灌頂を受けていない稚児とのセックスは御法度とされていました。灌頂を受けた稚児は「〜丸」という名がつけられました。稚児の上限は17〜19歳ぐらいまでで、稚児としての生活は、4〜5年くらいの短いものでした。
稚児の生活にはさまざまな制限が加えられ「幽玄を専らにする身」(『右記』)として、寺院の中で磨き立てられ、育てられたのです。 平安時代から鎌倉時代にかけて武士が隆盛すると、今度は武士に稚児寵愛の風習が飛び火しました。武将の身辺の用事を務めるいわゆる「小姓」という身分がありますが、小姓は世話係であり、秘書であり、伝令役であり、ボディーガードです。さらにその中でも特別に寵愛を得た美少年の小姓は、閨で夜伽の相手もしました。これが「稚児小姓」です。 |
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