ええじゃないか

あたかもこの時にあたり京師(けいし)に一大怪事あり。空中より神符へんぺんと飛び降り、処々の人家に落つ。その神符の降りたる人家は壇(だん)を設けてこれを祭り、…これを祝して吉祥となす。都下の士女は老少の別なく綺羅(きら)をきて男は女装し、女は男装す。…ことごとく俚歌(りか)をうたい太鼓をうち、…その歌辞は「よいじゃないか、えいじゃないか、くさいものに紙をはれ、やぶれたら、またはれ。えいじゃないか、えいじゃーないか」という。…

 江戸幕府末期の慶応3年(1867)、王政復古のまさにその年、天から神仏のお札が舞い降りると人々は熱狂し、「ええじゃないか、ええじゃないか」のはやし言葉にのって、男は女に、女は男に、老女は娘に変装して踊り狂いました。
 「ええじゃないか」とは、慶応3年の7月ごろから、翌年の春まで広範な民衆を巻き込んだ特殊な狂乱状態のことです。この民衆の広範な動きが「ええじゃないか」というはやし言葉で総称されるようになったのは近年、とくに研究者が注目するようになってからのことで、「ええじゃないか」やそれに類する踊りのはやし言葉が使われたのは、伊勢、近江地方より西の地域で、それより東では使われなかったとみられています。
 「ええじゃないか」は大政奉還から王政復古という歴史の激動期に、江戸から広島に至る広い地域で、膨大な民衆をその狂乱の渦の中に巻き込みました。

 「ええじゃないか」の発生が最も早く確認できる記録は、三河吉田の羽田八幡宮宮司羽田野敬雄の日記です。羽田野敬雄は神官であるとともに、三河の有力な国学看でした。三河地方は、国学者の活動が盛んで、伊勢信仰も民衆のあいだに根づよく浸透していました。
 羽田野敬雄が記した『萬歳書留控』の慶応3年7月24日の記事の中に、吉田城下近くに伊勢皇太神宮のお札が降り、22日には西羽田村にも降札があり、この地方で盛んであった「御鍬祭り」と同じように祝われ、つづいて7月23日には北側、中郷、西羽田、西町、西宿が提灯や幟を立てたり、お百度参りをし、夕方には西羽田村から若者と子供たちが紙幟を立て、住吉踊りをしてお祓を送って来て、夜に神楽が取り行われた。24日にはお祓を羽田八幡宮に飾り、供え物をし、村中で神楽をとり行い、その後、神酒や甘酒がふるまわれたと記しています。
 その後も吉田城下に降札は相次ぎ、それに続く人々の興奮を羽田野敬雄は、祭りもにぎわいがましくて、神酒、甘酒が振る舞われ、投餅や即興の踊りもまじえた「俄(にわか)」も現れ、熱狂状態が生まれたと記しています。

 「御鍬祭り」は、農具の鍬を神としてまつるもので、神霊がお札の形をかりて現れるという、飛神明の信仰とともに、これもまた、江戸時代に伊勢神宮の御師の活躍によって広まっていった信仰です。伊勢神官の外宮の祭神は農業をつかさどる神で、伊勢神宮の暦は農作業の暦でもありました。御師とは伊勢神宮の神職で、年の暮れに暦やお札を配りながらひろく農村に入り込み、伊勢信仰を根づかせた人々です。
 村人は御師から送られた鍬形の木をまつり、豊穣を祈りました。これは、村全体で祝い、村送り、掛け踊りの形をとって伝播する流行神(はやりかみ)で、「御蔭参り」と同じく60年の周期で、江戸時代を通じて8回ほど流行しました。
 三河や美濃などでは、伊勢国志摩郡磯部にある伊勢神宮の別宮伊雑宮(いざわのみや)から、明和4年(1767)に爆発的に各村々に勧請され、三河吉田では、この「伊雑官」を明和4年4月9日に勧請してから慶応3年でちょうど101年になり、この百年の祭礼が西三河や、吉田近辺でも行われているので、それを行おうとしていたところに、近辺や羽田村に御祓が降ったので、村役人と打合せ御鍬祭りと「一同」に祭ることにしたと記し、23日、24日の祭りの様子を記しているのです。ここでは「御蔭参り」の伝統よりも、「御鍬祭り」の伝統の方が根強かったようです。

 この御鍬祭りというのは、人々が様々に飾り立てて御輿をかついで集団で飲食の振舞いをうけながらねり歩くという形のものが一般的で、「ええじゃないか騒動」の初期の姿は、村をあげての祭りのあり方に近似したものでした。

 三河吉田に端を発した「ええじゃないか」は、家から家、宿場から宿場へと伝わり、東海道を東と西にわかれて伝播していきました。これを飛神明のめでたい兆しとして喜び、門前の人目につくところに、仮社殿や神棚をしつらえ、親類縁者や知り合いを集めて酒食のもてなしをしました。
お札降りが相次ぐにつれ、しだいに酔っぱらいの往来が増え、富裕な家の前には酒樽が据えられ、振る舞い酒や撒き銭、撒き餅が行われました。
 お祭り気分が絶頂に達すると、老若男女を問わず飾り立て、老婆は娘となり、男は女装となり、女は男装となり、三味線をかき鳴らし、華美な衣装で踊り狂ったのです。
 各地で、「老若男女睦まじく打交わり、男は女の風をなし女は男の姿をなし、衣装襦袢を揃へ」、「多人数群れをなし、或いは紅白縮緬の揃の半天を着し、或いは銘々思付の装をなし、娘は若衆となり、老婆は娘になり、男子は女の服を着し踊り廻り」「男は女形、女は男之姿に出立、異形風俗奇々妙々」といった光景が繰り広げられました。

 江戸時代、伊勢まいりは全時代を通じて流行しましたが、中でも、60年にいっペんくらい御蔭年というのがあって、その年にお札が降る、そうすると集団でお伊勢参りに行く、そういう集団お伊勢参りを「御蔭参り」といいました。大きなものは「ええじゃないか」以前に六回あったといわれています。
 文政13年(1830)の「御蔭参り」での伊勢参宮者は500万人だったといわれ、当時の日本の人口、3000万人と比べると、大変な人数が参加しました。明和8年の群参のときから、広く「おかげまいり」と言われるようになりました。それ以前の群参については「おかげまいり」と呼ばずに、当時は「ぬけまいり」と呼んでいました。
 皇太神宮のお札が降ったとか、多くの人たち の伊勢まいりが始まったとかの噂が立つと、子は親に断りなく、妻も夫の許可なく、奉公人も主人に無断で伊勢参宮に出掛けました。その旅姿は、白衣に菅笠で一本の杓を持ったりもしました。また、彼らは多く集団を作って旅し、幟や万灯を押し立て、「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌い踊り歩きました。日頃の生活を離れて自由に旅ができ、十分な旅行費用を用意しなくても、施行といって、道筋の家々が食べ物や宿泊の場所を与えてくれ ました。それを神のおかげとし、妨げると天罰が下るとされました。

 「ええじゃないか」で、降ったお札は、伊勢神宮のものだけでなく、種々雑多な神札・神像、仏札・仏像、小判や美女までもが降りました。「ええじゃないか」のときには、伊勢地方を除いては、伊勢参宮はあまり行われず、京都では主として祇園八坂神社、阿波では勢見の金毘羅宮などに参詣したといい、各地とも、その土地の民衆の踊りが中心でした。

 お札降りのあった家は、富農や豪商、村役などの有力者が多く、実は、家の軒先とか、庭とか、それから松の木の枝とか、そういうところにお札が置かれてあったということだったようですが、飛神明の信仰と結びついて、御祓等の降下を「神異」「奇瑞」として、お札が降った、あるいは降りたと考えられました。
 これが、9月以降になると、富家への飲食の強要などの集団的行動に転化していきました。富家では、打ち壊しなどを恐れて、応接しました。
 といっても、一つの騒動が持続的に連続して展開するという形をとったわけではなく、各地で日を追って多発的につぎつぎとおこり、一定期間(数日間)すぎると鎮静するという形で連鎖的にひろがっていきました。東限の江戸から西限の広島・四国まで、わずか4か月の間に日本主要街道を全部占領してしまいました。

 しかし、維新前夜、世直しを求めてエネルギーを爆発させた「ええじゃないか」の嵐も、慶応4年春、京都で「五箇条の御誓文」が発布されるころには、すでに、その幕を閉じていました。

参考文献 藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』岩波新書

    

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